「自信を失う前」にしておくこと。

「自信がなくなった。」

そう言って、落ち込んでいる人の話を聞くことがしばしばある。

「そうなんだ。それは運が悪かったね。」

彼・彼女達には、そのような類いの言葉をかける。誰かを呼び出しておいて、わざわざ後ろ向きな話をしているのだ。少し冷めた言い方をすれば、役目の半分は、期待通りの定型文を述べることにある。

同時に、陰に隠れたある感情が自分を動機付ける。残りの時間で、さてどのように、内発的に相手を動機付けるか。 枕詞の影を演じるもう半分は、お節介と自己満足の抽出物でもある。

自信を失った人達の話を聞いていると、目標に対するアプローチに無理があることが多い。というより「アプローチしていない」と言って差し支えない。

結婚について悩んでいて、出会いを求めるわけでもない。仕事が上手くいかないと悩んでいて、自分に合う環境を探すでもない。人前で緊張するからと、自分を表現するチャンスに手を挙げるでもない。

なぜ、それで「できる」と思えたのか。誰にも無し得ない前提条件で、それが叶うとなぜ思えたのか。

その隔たりの出所を、同時に私は分かってしまう。かつての私も真剣にそのことに悩み、気づいたからだ。

「私は特別ではない。」

多くの「私」は、煌びやかな才能に恵まれているわけではない。容姿も頭脳も体力も、大抵の人が平均の中に居て、それでも何者かでありたいと願っている。「大人になる」とは、その差に折り合いをつける(つまり、正しい努力を重ねるか、願いを捨てるかの)作業である。そこから解き放たれたくて、新たな可能性にすがってハリボテの自分を大きくし、嫌悪する。

筋トレのためにジムに行き1年間継続できる人がどの程度いるか。統計によれば、答えは実に「3%」だそうだ。分かる気もする。ジムに行くことは面倒だし、初日に実績を作った日には、もう特別な何者かになったようにさえ思えてしまう。さて、どうしたものか。

「良い一日だった。」

気分が晴れやかなのに、一体どこの何が良くてそう思えているのか不明瞭な時がしばしばある。高揚する気持ちは、日常の中に汗と一緒に垂れ流している私の良さを身体だけ覚えている、ということなのではないか。

一日の行動を全てメモすることは不可能だが、礼を言われたり、今日した良いことを書き留めたりすることは、思いの他難しくない。そこに「私」を輝かせるヒントと動機の源泉がある。ある人は、それを「才能」と称する。

大風呂敷を広げることは、悪いことではない。けれど、それに見合う努力が必要だ。努力は量と質の掛け算である。必要の無い自信を失う前に、何を武器に戦うかを洞察した方が良い。

それは、勿論特別な武器では無い。大半の人類は、 100mを9秒代で走ることができない。だからこそ、注意深く、それに気づく努力をしなくてはならない。その起点の一手を、悟られないように、いかに本人に変わって盤上に投じるか。「もう半分」の方の、つまりは目的である。

そして、それが1つの才能である、とも、今のところ私は信じている。ありがた迷惑な話かもしれないが。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)