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なぜ「紙」や「ペン」が無くならないのか。

何故、紙やペンは無くならないのだろう。

だって、もう不要ではないか。四六時中携帯するスマートフォン上で、ウン万というアプリケーションを操り、世界中のどの知り合いとだって、瞬時に意思疎通できる。一生をかけて書き得るテキストデータを1つのデバイスに保存したって余りある容量も手にした。環境にも優しいし、何より手が疲れない。言うこと無しではないか。

ふと、そんなことを考えたことがある。結論は「我々には、まだまだ『紙』や『ペン』に頼る必要がある」ということだった。

「ペンでかくこと」と、「デバイスでかくこと」は、全く異なる動作だ。より具体的に言えば、"書く"というシンプルな動作においてはほとんど同じだが、"描く"ことについては大いに異なる、と言った方が良い。

例えば、簡単なグラフを描く時。ペンで書く時には、頭に思い描いた図を、紙に描き写す。それだけだ。

一方、デバイスで描く場合は、少し事情が異なる。頭のなかに思い描いた図を描くのに最も相応しいと思われる機能を、デバイスの中から選択しなければならない。この時「Aという機能を使えばこのような仕上がりになるだろうし、Bという機能を使えば…」と一端考える。そして、その機能を探す。何かの線をコピーする必要があれば、「どのようにコピーするか」を考えてから動作に入る。思考や動作の数(トランザクション)が多いのだ。

時折、「複数のことを同時に行うこと」を推奨する人がいる。私は、「ほとんど思考しなくてもできること(例:歩く・走る、プログラムにより自動化された仕事 等)と、そうでないもののマルチタスクは有効である一方、少しでも思考が必要なものの同士のマルチタスクは逆効果だと考えている。人は、同時に2つのことを思考できないからだ。2つのことを同時に思考しているようでいて、その実、交互に思考の対象を切り替えているに過ぎない。機能が制限された紙とペンで描く行為のメリットは、まさにこの点にある。よほど単純なものでなければ、デバイスで描く前に、イメージを具体化すべく紙に手で描いた方が良い。

何かの革新的な、全く新しいテクノロジーAが生まれた時、それが旧来の同種のテクノロジーBを駆逐してしまうという理屈は、一見もっともらしい。だが、実際にはほとんどの場合、そうはならない。A⊃Bではないからだ。新しいテクノロジーは、旧来のテクノロジーの何かをそぎ落としたからこそ、革新的なのである。そのそぎ落とされた集合が、あるケースにおいて尚お有用であり続ければ、Bは生き残り続ける。

紙とペンは当面必要だ。「思い描いた図形を、思い通りに表示できる機能」が追加された時、真価が改めて問われるだろう。それまで、この原始的なデバイスに敬意を表さなければならない。我々の頭は、少なくとも彼らを軽んじてよい程、賢いデバイスではないのだから。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)