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おんなと服への執着

妊娠してからずっと、自分自身への母親役割の追加についてどうにもしっくりこなくてそのギャップに悩まされて妊娠9ヶ月をもうまもなく迎えようとしている。

いろんな場面で「母親」「ママ」と呼ばれることが増え、自分の属性が変化していることを急激に思い知らされる。呼ばれるたびにどうしても違和感が拭い去れない。それはわたしが「おんな」であることに固執しているからなのだと思う。

固執しているから、妊婦らしく丸みをおびてくからだをなかなか受け入れられない。大きくなる胸もお尻もお腹も、本当はもっと女性らしく自分の思う黄金比のプロポーションでいたいのに、とさえ思う。自分のアイデンティティのひとつとしてこんなに「おんな」に執着しているということに、この妊娠で初めて気がついた。母親のラベルを貼られることへの嫌悪感。友人に祝ってもらえることは嬉しいものの、「もうすっかりママだね」と言われるとお腹の子の「ママ」としての認識になるのがとても悲しい。わたしはわたしがすきで、わたしを愛して欲しいのだ。まだ、せめて産む前までは「おんな」でいさせて。わたしの名前を呼んで欲しい。

もうひとつ、自分のアイデンティティを確立しているものが服だ。妊娠して体型が日々丸みを帯びてゆき、快適に着られる服や下着が限られていく。物理的に選べないつらさ。選択肢の縮小。服が好きでこだわりがあるゆえ、着たい着たくない、好きなのに着られない、買えない。アパレルで働いていたけれど、自分が考えるよりもはるかに服への執着が強くて毎日「はやくもとの体型に戻ったら」を考える。来る日も来る日も着たい服を着られずわたしがわたしじゃないみたい。

このギャップが埋まるのは産後。
産後になったらわたしは母で、きっとこの子にすがって生きていきたくなるのだと思う。いまから会ってもいないのにかわいいと思っているから、きっと生まれてもかわいいのだろう。本能とはとても怖いものだ。わたしがわたしだったことを忘れてしまうのかもしれない。この恐怖は何に例えればいいのだろう。