カタチから入ること

日々の些細な感性とかを保存しておきたくなったからだ。

Twitterでも構わなかった。それこそサブ垢だの裏垢だの呼ばれる、わたしとは特定されにくいアカウントをひとつ設けて、淡々と録っておくのも手だった。

それでもなにか満足いかないのは、どこか自己顕示欲的なものも充したかったのだろう、noteという形式をとることでなんとなく見られてるかもを味わう手を取った。

文字数としても今ひとつ、ちろちろと半端な文章として日記的に、書けるときに気ままに。何より酒のせいか忘れっぽくなった。一方で酒を飲んでいると捗る思考もあったり。そんなわけで些細な記録作業をしたいという些細な《やりたい》に取り組むにあたり、noteというカタチから入ってみた。


思えば所謂《カタチから入る》類のことは好まなかった。それは対自分にも、対他人にも当てはまった。

シンプルにダサいと思った。実力が伴わないのに、見てくれだけ立派に在ることは、ある種の嘘だし、カッコ悪いことであると。ちからが10のヤンガスが覇王のオノを持ってたら、拍子抜けもいいところで。

反対に、ちくちくスキルアップしたあとに満を持して実装されるカタチ、という順を踏むメリットの所在についても考えたら、解が得られなかったことも事実だった。別に、だからどうしたで脳の興味が止まった。

最終にカタチを装うなら、2step、無駄じゃないか?になって、返ってきた。

結局、カタチをカタチ止まりで終了するからダサいわけで、実をどこかのタイミングで伴わせれば何事も問題ないわけで。

己の足元に目をやれば、音楽好きが高じて、あるバンドのライブ終わりにすぐアコギを買ったが、コードがまるで理解できずすぐにインテリアと化した。カタチから入るダサさの権化はすぐそこに転がっていた。

そんなとりとめもない感性も保存したいと思うくらいには歳をとってきたらしい。

今回のカタチはどこまで実を伴えるか、誰かが見てくれているかもなぁ等と戯れた期待を抱きながら。



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