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婚礼は淡雪と。展のメインビジュアルについて

2018年12月4日から10日まで、大阪のぎゃらりぃあと様で開催されていた展示会に参加させて頂きました。すべての作品の写真は、この前の画像に挙げておりますので、よかったら見てやってください。https://note.mu/nene0000/n/n318ed29f9b4b

メインビジュアルとなったのがこの二人。
作品タイトルは「誰も許してくれなくても、私たちは」。
筋肉少女帯の「ザ・シサ」というアルバムの「セレブレーションの視差」という歌からインスピレーションを得て描きました。いわゆる同性結婚式ですね。誰にも許されないから、ふたりだけで誰もいない廃教会で式を挙げます。

これを描くにあたって、本当に色々考えました。私は同性結婚式も異性結婚式も、新しい門出、ひとさまの素敵な人生の一ページと思っています。だけど、やっぱりそれを許さない人もいるかもしれない。親や、親せきや、その他のしがらみの人たち。これを描くことで、見ることで、不快に思う方もいらっしゃるのかもしれない。それこそ、視差ですよね。
決して他人と完全には共有できない想い、思想、思考。
見方は人それぞれで、それは他人である限り絶対に共有できない。でもだからこそ、私たちは分かりあいたいと願うし、分かってほしいと言葉や行動を尽くす生き物だとも思うのです。
Twitterにあげたところ、「自分の信じる所の物とは違う、だから応援も祝福も拒絶も出来ない。ただ自分はこういう思想の方々とは距離を置く」という趣旨のコメントを頂きました。なるほど、それもひとつの解決策です。共存をしていくための。
自分がどうしても共有できない考え方対して距離を置くというのは、正しい選択のひとつと思います。でも。

でも私は、「応援ができない」というのは、納得がいかなかったです。
異性であれ、同性であれ、誰かを愛すること自体はなにひとつ悪いことではないはず。(立場がどうとか、不倫とか、そういうのはまあ置いておいて)
人生の門出を応援(とまではいかなくても)祝福ができない、というのは、あまりに寂しい。そして同性愛の方々は、認知はされてきつつあるとは言えども、やはり日常になんらかの葛藤を抱えてらっしゃるのではないか、と僅かなりとも察した出来事でした。
なぜだろう。自分の信念と違うものであれば、門出を祝うという当たり前の事さえしてもらえないのだろうか。
私はそれをとても寂しく思い、また何かとてもかなしくなりました。
作品自体に対してどうこう言われたわけではないのですが、そういう思想の方がいらっしゃるのだなあということに対する寂しさというか。

異性愛、同性愛とはまた異なると思いますが、人間、だれしも異なるものです。「ふつう」ってなんだ?と思います。
横並びになるように周りの様子をうかがってるだけ、共同幻想を抱いているように思いこんでるだけの出来事が、世の中には山のようにあると思っています。
だって視差があるもの。私たちには。
恋人であっても共有しえない。
同じ夕日を見ていても、その赤色の感じ方、見え方は人それぞれ違うそうです。それは細胞レベルの話。

せめてふたりのことを、祝ってあげられたら。
その先がたとえ無くとも。そう願いを込めて描きました。

そんな出来事のあとに参加した展覧会で、思いのほか、綺麗と言って下さる方が多くて本当に嬉しかったです。ポストカードをお迎えしてくださった方もいて、「ふたりの笑顔が本当に良かったから」と嬉しいお言葉もいただけました。描いて良かった、本当にそう思えました。

これを見て、やっぱりご不快に思う方もいらっしゃるかもしれません。
でもどうか、当たり前の人生の門出くらいは、祝福してあげてくれませんか。わずかなりとも、応援してくださいませんか。
それは当たり前の、あたりまえの人生のセレブレーションの瞬間。

だって、ねえ。
異性愛であっても、「このふたり、きっと長続きしないなあ」とか思う新郎新婦だって世の中には居るかもでしょう?(;^_^A
でも、誰だって表向きは祝うじゃないですか。
建前であってもいい。ふりだけでもいい。
でも、できれば心から。
祝うべき出来事を、祝ってあげられる人生であってほしい。
そう願っています。
それが、きっと多様性ということだと思うから。
誰かを愛することも、受け入れることもとても難しい。
それでも、わかろうとすることをあきらめることは、多様性を自ら狭めていく行為だと思うのです。もっと生きやすく生きたい。
自分の信じる何かが、同じように否定されたくないな、と思うのです。

見てくださってありがとうございました。
筋肉少女帯の歌、本当に素敵ですよ~。歌詞もとっても深いのです。

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