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残念ながら「日本サッカー」は渋谷にある。

人々が時に駆け足で、時に千鳥足で交差する渋谷のスクランブル交差点。日本のカルチャーを勉強する上で通らざるを得ないこの場所で日本サッカーについて考える。

渋谷になんであんなに人が集まるかはわからないけれど、いくつになっても何回来ても、あのスクランブル交差点を渡る時のひそひそと感じる高揚感は消えることのない。みんなその高揚感がたまらないのかな。

日本とベトナムが対峙したアジアカップは日本の勝利で終わったが、その試合内容なのかもろもろの事象なのかに納得しない方々が、思い思いの感想をSNSで垂れ流していた。ぼくはゼミの飲み会だったもので1ミリも見ていない。

その感想の中には、ピッチのものが多数ながらにベトナムのサッカーの盛り上がりをお伝えしてくれるものもあった。

これが昨日の試合を踏まえてでないことは、ご理解いただきたいが確かにベトナムでは‘‘あの時の韓国戦’’からサッカー熱がムンムンと上昇しており、国民のサッカーへの関心が高いと言われている。

実際にアジア大会の際にベトナムに訪れた人から聞いた話では、試合当日は街では暴動混じりの盛り上がりを見せ、皆が旗を振り、試合に集中する。その時は負けたが、皆が楽しそうで東南アジアでこんなサッカーがここまで盛り上がっているのかと感じたそうだ。

数字としても広告料の上昇がこの現象を物語っている。東南アジアのピッチのレベルはもちろん、ピッチ外のサッカーもここまできたか。そらみんな「日本サッカーはやばい」と言うわけだな。


そんなことを考えながら渋谷の交差点を歩く。


◾️なにかを言わなければ、

やはり高揚感と共にセンター街を歩く。ここはサッカーの試合が行われるとサッカー好きが集まって歌い、騒ぎ、それぞれの感情を露出する。そしてその彼らは日本のサッカーファンから嫌われる。理由は「あいつらは普段サッカーを見ていないから」だ。

もちろんこれにはもっと様々な理由があって、例えば暴力、痴漢、窃盗、その他迷惑行為など普段からJリーグなどでサッカーを楽しんでいる人からしたら、そんなぽっと出のやつらと同じに見られたらたまったもんではないというのも理解ができる。

渋谷で騒ぐ奴は戦術も知らないし、ただサッカーの盛り上がりに便乗して酒を飲んでいるだけだ。というのもわかる。

ただ、その普段からサッカーを愛すファンが羨む海外のサッカーで盛り上がりっていうのは、スタジアム以外で感情が爆発するから盛り上がって見えるのではないだろうか。そもそもサッカーをこよなく愛す人が瞬間的にサッカーで盛り上がる人に文句を言う様子はなにかおかしい。サッカーは理解をしないと語ってはいけないものか。

例えばバイキングクラップを引っさげ国民一体となり戦うアイスランドでそこまでサッカーに詳しいひとがどれくらいいるのかという話になる。国を応援するからという極めて単純かつ情熱的な発想が許されないのならば、サッカーとはなかなかつまらないスポーツだ。サッカー云々の前に国を応援する権利はみんなにある。それに優劣はない。

日本でのサッカーは「国外を羨み、国内を貶す」ものになってしまっている気がする。ピッチのプレーの質のことはわからないけれど、海外のサポーター文化、商品、思想、熱狂を日本と比較し、日本をうんと下に見る。

でもこと海外の盛り上がりも「ただ国を応援する」「サッカーに熱狂する」の2つから構成されていて、そこにはそれなりの良くない行為もあるはずだ。日本も割と同じだと思うんだけど。

◾️もっと自信をもって

はっきり言うとあの渋谷の騒動は「日本のサッカー」だ。

そしてそれに敵対することはその日本サッカーの発展になるのかと言われると疑問である。ぼくもはじめはよく思っていなかったけれど、いろいろ勉強したらそれが単なる嫉妬であることにも気がついた。要はサッカーで単純に盛り上がっているひとが羨ましいのだ。悲しいかな日本で身につけた『謙虚』という生き方はサッカーと時に相性が悪いことも気がついた。

2018年ロシアワールドカップのパブリックビューイングが渋谷のホールで行われ日本の応援団が渋谷で太鼓を叩いた。ぼくは初めて見た光景だったが、ここでいうサッカーファンとサッカー好きが同時にチャントを歌い、酒を飲む絵面はなんとも言えない高揚感を持っていた。そしてこの交わらないと思っていた両者の融合は、日本が強くなるためには必要なプロセスなのかなとも思った。反論があるのはわかっている。

羨ましいという感情はどこか自分のことを貶すきっかけになるのかもしれない。しかし、サッカーにおいて、日本のサッカーにおいて自分のことを貶すことがサッカーが強くなるために必要なこととは思わない。あなたはこの「日本のサッカー」をどう思うだろうか。なにか思うことがあればどしどし意見を話してほしい。


そんなことを考えながら交差点を渡る。

いつもより少し駆け足だったのはなぜだろうか。

ーーー


渋谷で騒ぐのもサッカーだし、家で見るのもサッカーだと。

ただ、単純にサッカーで興奮した感情を爆発させないと、サッカーとはおしとやかなスポーツであると感じてしまう気がします。

例えば野球や柔道なんかでは過度に喜ぶことが相手への敬意の欠如とされます。そしてそれらの精神が根強く残る日本でサッカーにもその精神を当てはめたくなるのは当然です。だからサッカーはチャラいという風潮が未だにある。

しかしそのエネルギーを鎮火させることが日本サッカーの発展かと言われればそれはわからないのです。憧れすぎるのはつまらないけれど、世界で戦うためには必要かなと思います。

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