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MOKKEの始まり


根尾に住むことになった経緯

根尾にはIAMAS(情報科学芸術大学院大学)の一年生の頃「NEOCOプロジェクト」で初めて訪れ農業を体験しその経験から一度住んでみたいと思っていました。GIDSのデザイナーインレジデンスの募集がかかるとすぐに応募しました。滞在が始まったのは2018年の2月。私の当初の計画は、根尾の人々の幸せの記憶を集めて、それを根尾の地域別に分類し作品を作り共有することでした。作品の制作過程においてポジティブ心理学の原理を利用し根尾の人々の幸せの記憶を掘り起こし可視化することによって住んでいる場所への愛着が積極的な方向に変わっていくというのではないかという仮説により研究を進める計画でした。

私は韓国で学部生時代、心理学を専攻しており人間が持つ感情やモラルへの深い関心を持ち、人間性とはなんなのか、人間としての自然とはなんなのかについて考えてきました。今回リサーチとインタビューをするうえで最も驚いた点は乱暴な言い方かもしれませんが、場所への愛着の度合いと住んでいる地域についての理解や哲学、土地への美しさを感じることを明確に持ち言語化しているのは、もともとその土地で生まれ育った人間ではなく、移住者でした。研究は、私の驚きを起点として「移住者」に焦点を合わせ「中山間地域を選択し移住した人の幸福感の質的調査による研究」- 岐阜県根尾における聞き取り調査をもとに- 」というタイトルの研究を始めることに変わりました。

田舎へ移住をする人への偏見

研究当初、私は根尾のような里山に移住をするということに対してネガティブなイメージを持っていました。このようなネガティブなイメージを持った背景には私の母国である韓国での「田舎への移住者」への評価が原型にあったからです。首都ソウルは猛烈な競争社会です。その競争は幼い頃より始まります。資本主義社会の中で生き残り重要な社会的ポストに着くことが唯一の価値観であるように社会に蔓延しています。その価値観の中でいうと「田舎への移住」というのは負けということなのです。それは社会の外に出ることであり、資本主義社会の中では下に見られます。

ニューヨーク、テキサス、ソウルと私は大都市で生活してきました。私の選んだ、または大都市に住んでいる私たちが選んだ人生以外を生きる人々に対して排他的な意識が根底にあるかもしれない。そして移民問題など最近TVで流れている情報がネガティブなものが多いことも影響の一つかもしれません。「田舎者」という日常において人を小馬鹿にする表現としてあるのも一つかもしれません。また、私は子供の頃から様々な所で住んでいたことにより、不慣れな場所へ定着するということに対して長く退屈なプロセスだと思っていましたしストレスを感じていました。

移住+幸福感

移住をして本当に幸せなんだろうか? 移住と幸福には相関関係があるのだろうか。そして、幸福感という言葉自体が、西洋と東洋では、捉え方が異なると思います。それは社会の構造や培われてきた長い歴史の影響もあるかと思います。幸せは数値にして測定することは難しいことです。

アンガス・キャンベルによると「幸福は、個人の内面に固有のものである。つまり、健康、富、名誉、喜びなどの外面的な条件は、幸せに影響を与えることはできるが、その条件自体が幸せを意味するものではない」といっています。幸福感の定義は学者ごとにそれぞれの意見がありますが、客観的指標を使用して測定したいくつかの国の国民の幸福度を測定した研究を見ると、例外的な国はありますが、国民所得水準が高い国の国民が幸福度が高い傾向にあります。しかし、高所得なのにそれに比例して幸福度が高まらない理由は、人々が自分の幸せのレベルに適応して鈍感になり、所得の絶対水準ではなく、過去のレベルや他の人との相対レベルにこだわるからです。

幸福感の意識の差

私が「日本、韓国」と「アメリカ」両方で生活をして感じたことは「日本、韓国」の方が個人的に幸福を求めるということが難しいのではないかということです。日本と韓国のような東アジアは、儒教圏であり個人が求める生き方を求める以前に社会的な制約が個人に重くのしかかり個人的な選択をする妨げになる要因の力が強いと思います。「協調的な幸福感」が重要であり横並びに幸福を追うことがデザインされている。日本の場合は「協調的幸福」についての尺度を開発していてたり、幸福感の概念が明らかに違います。

そしてもう一つの傾向としては、多幸感の状態である極限の喜びというのではなく、0の状態を幸せだと考える傾向が高いということです。これは、他の研究結果からも、人々に「幸せを高める政策」と「不幸を減らす政策」の中でどれが良いか質問すると、後者を望んでいる人が多かったという研究もあります。これは「日本、韓国」の幸福感の非常に興味深い点だと思います。

解決方法としての根尾という場所

私は根尾に滞在する以前は都市部での生活の不満や問題点を移住という方式で、新しい暮らし方、生き方の方法として解決できるという視点を一度も考えたことがなかったです。子供への教育、核家族以外の共同体を里山で作るということ、都市部でのローンを背負っていきていく働き方への疑問、身体が喜ぶ生き方など、移住者はまず現状での生活のあり方に疑問やストレスを持ち自らのニーズを明らかにし実際に行動を起こし選択をして根尾に移住してきています。当初私が想定していたイメージは競争社会からの逃避でした。しかし、地方への移住は競争社会からの逃避という文脈ではなくオルタナティブな「暮らし方」を求め動いた人の物語でした。移住を決める最初の動機はフラジャイルなものだったかもしれません。しかし、移住は幸福へ繋がる選択であり、独立的で自発的な行為です。目的を持ち、本人の意志で移動する移住の時代が開かれたと思います。

インタビュー後の変化

私を含めた4人の根尾での移住者の生活インタビューをした結果、それぞれ特有の価値観が発見されたが、同時に同じ脈絡のものが多々あり興味深い点が発見されました。そして、私自身インタビューをする中で幸福と移住の考えが大幅に変化しました。見知らぬ土地であった根尾のへ移住を決意しようかというところまで影響を受けました。実際に移住を決断するにはもう少しの時間が必要であるが仕事、暮らし方という点を整理して今後の動きを進めていきたいと思っています。

今すぐ幸せであろう

生き方とは正しいか、正しくないのかの問題ではない。主流の生き方というものがカタログ化しているのが現代社会です。移住は新しい「暮らし方」の可能性を示す生き方であり、私の世代からみると日本の里山が紡いできた文化「古くて新しい」価値観と出会える機会にもなります。これからの根尾は新しい暮らし方を求める移住者と、もとより根尾に住んでいる保守層の人々との共存の課題があると思います。

今後残った課題

日本と韓国のような場合は、集団主義社会で幸福感が文化的影響を受けるという研究結果が頻繁に報告されています。これは私の幸せと私の集団の幸せが非常に密接な関連があるということです。新しい「暮らし方」を求める移住者のような個人の生き方を尊重している人々と集団の価値を大切にする根尾の地元の人々がどのような相乗効果で新しいコミュニティを作っていくのかを調べていきたいと思っています。また集団の価値を大切にする根尾の人々と二項対立のように書いてしまったがインタビューを通して根尾の人々の集団の価値を大切にする姿勢は個人としての生き方を尊重することにも繋がっているような気もしています。私自身、根尾の方との交流の中で都会とは違った個人としての尊重をされていることを実感している。東洋的個人主義とはなんだろうか。そのことに対しても理解を深めたい。引き続き根尾でインタビューをし研究を進めていきます。




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