【29. 幻影と現[うつつ]と疑惑】

部屋に遺された書き置きと、今朝方になって漸く復活した彼女の携帯の呼出し音から察するに…
─とりあえず…無事─
なのは間違いない。
でも、彼女は電話に出ない。
─昨日、
「先に部屋に戻ってて…」
なんて言ったのがやっぱマズかった…?─
他に思い当たる節は…無い…。

彼は、急遽この一週間の仕事の予定を変更し、靄々[もやもや]した気持ちが晴れることを願いながら新幹線に乗り込み、今やっと彼女の部屋に着いたところ。
先ずは顔を見れただけで
…ふ~~っ…
と十安心…。
そこに彼女は存在していた。

「まだ部屋来たばっかだったのに、急に
〈ごめんなさい。お家帰ります。心配しないで。〉
って何でぇ?電話しても全然出てくれなかったし…そのうち電源切れたっぽいし…今日だって来るまでに何度も電話したんだよ?…何で出てくれなかったの?」
彼は俯く彼女の手を握り、昨夜の、余りにも突然で不可思議な行動の理由を訊ねた。
「ごめんなさい…」
か細い声…。
「でも…俺の方こそごめん…『先帰ってて…』なんて言っちゃったから…それで嫌いになっちゃった…?」
「…ううん…違うの…ごめんなさい…」
「何で謝んの?昨日…あの後何かあったの?」
「……ごめんなさい…」
「謝んなくって良いから…」
そう言って優しく抱き寄せ、長い髪を撫でた。
けれど彼女は
─『なんで!?ちゃんと言ってよ!』
彼はきっとそう思ってる筈…─
そんな風に考えてしまい、責められているようにしか感じられない。
本当の彼の心の内はどうか…というと、
─間違いなく何かあった…─
彼女の廻りに漂う不穏な空気を感じ取り、嫌な予感が過[よぎ]っていた。
それは彼女の態度が物語っている。
─いつもなら…ちゃんと抱き付いてくれるのに…─
彼女にはそれが出来なかった。
出来る筈もなかった。
─けど…何が…?もしかしたら…“カレ”になんかあった…とか…?─
「ちゃんと話し聞くからさぁ…とりあえず向こう行こ?」
2人は薄暗い寝室へと移動し、並んでベッドに腰を下ろした。
「ねぇ?目も合わせてくれないの…?」
その言葉に、彼女は
─じゃ、合わせる…─
とでも言わんばかりに彼に視線を合わせた。
でも
…チラッ…
と横目に見るくらいが精一杯…。
すぐに下を向く。
「ほんとは…嫌いになっちゃったの…?」
「…ううん…違うの……」
「じゃ…どうしたの…?」
「……昨日は…ごめんね…あの後すぐ…急に用事出来ちゃって…」
誰にでも判別出来る嘘しか思い浮かばない…。
それでも彼は
「だったら電話してくれれば良かったのに…」
それを受け入れる。
そして、彼女の両肩にそっと手を掛け、唇を近付けた。
ところが…
「イヤッ!」
肩を大きく揺すり彼の手を払い除け、目の前に迫る唇を彼女は拒んだ。
それは…
夕べの衝撃が蘇ったから。
それと…他にも理由があったから。

「…ごめんなさい……やめて…」
彼女は再び俯いた。
「何で…?…やっぱ…嫌いになったんでしょ…?」
自信を無くした彼の声。
「…ううん…違う…なってない……私………」
突然、喉の奥に口枷[くちかせ]でも押し込められたように、それ以上の言葉が出て来ない。
「…私………………」
何度も言い掛け、しかし、そこで止まる。
彼はその度に静かに頷き、続く言葉を待っていた。
─こんなことに…彼を巻き込みたくない…
それに…もし正直に話したら…きっと嫌われちゃう…
だから…ダメ…言えない…─
彼を失うのが怖かった。
けれど、嘘と真実…そのどちらを伝えようとしても思うことは一緒…。
押し寄せる罪悪感に打ち拉[ひし]がれ、やがてその声も、身体も、心までもが震え出す彼女。
それに気付いた彼は、もう一度そっと彼女の手を取り、伏せた瞳を下から覗き込むように見詰めながら静かに囁いた。
「何があったとしても…俺は嫌いになったりなんかしないよ?」
まるで、あの時彼女の身に起こったことも、今彼女が何を考えているかも、全てお見通し…みたいな優しさ…。
それが彼女を余計に苦しませ、しかし、震えから解放する。
「そんな訳ないよ……」
「…無くなぁい…」
「…きっと…幻滅する…」
「…しない…」
「……ほんとに…?」
「うん…絶対…。だから…何があったのか…正直に話して…」
それでも彼女は悩んだ。
自分が忌まわしい存在となってしまったこの事実は、もう永遠に変えられない…。
夕べのことも、これから先のことも、何かを考え始めるだけで彼女は怯え、震え出してしまう。
それは…
─もう…どうなってもいい…─
何も彼も、自分さえをも失う覚悟…それが、彼女の中に存在していたから。
むしろ、
─もう何も考えたくない…─
というのが本当のところ…。
そして…
それらと同時に存在する、
─彼に今すぐにでも縋[すが]り付きたい…─
という切なく苦しい想い…。
しかし、彼女にはそれが出来ずにいた。

暫しの沈黙が続く。
その間の彼は、宥[なだ]めるように髪を撫でたり、震える身体を擦[さす]ったり、幼子を愛[あや]すように悲嘆に暮れた背を
…ポン…ポン…ポン…
と優しく叩いてみたり…。
それから何度もの
「……私…………」
の後、漸く彼女は、喉の痞[つかえ]を吐き出した。
「………穢れちゃったの……」
その瞬間、顔をくしゃくしゃにした彼女の目から大粒の涙が零れ落ちる…。
そして…
「…ごめんなさい……ごめんなさい……」
瞬時にして彼は、“彼女の言葉の意味するもの”を理解した。
「それって………そういうこと…?」
ほんの一瞬、彼女はただ、俯き加減を深めて答えた。
「ごめん!ほんとごめん!…俺のせいだ…!」
抱き締めようとする彼。
その腕をすり抜けようと彼女は必至で身を拗ねらせる。
「ううん…私が悪いの…嫌いになったでしょ?こんな私なんか…気持ち悪いでしょ?」
彼は、二度も自分の腕の中から溢れ落ちた彼女の両手を固く握り締め、訴えた。
「そんなことないから!そんなんで嫌いになったりなんかしない!」
「………」
彼女は黙って二、三度首を振る。
「ほんとになんないってば!…逆に俺のほうこそ……嫌われたっておかしくない…嫌いになっちゃったよね…?」
「…なってない…」
「だって、あん時…『先に戻ってて…』なんて俺が言わなかったら…こんな………ごめんなさい……」

─なんで?なんであんなこと言ったの?─
確かに彼女は…あの時そう思った。
けれど、彼女にはそれを責める気など微塵も無い。
「…ううん……私が悪いの…私が…ぼ~っ…として歩いてたから…」
例え自分が悪い訳じゃなくても…
─全部…私のせい…─
そう感じ、そう信じ切っていた…。

彼に真相を伝えられた後の暫くの間…信じられないほどの涙が頬を伝い、溢れ落ちる胸元と彼の袖を冷たく濡らしていた。
そうして、彼女の胸の内に留めて置くには余りにも苦しく辛い、幾つも絡み合った不安と罪悪感は、ひとつずつ綻[ほころ]び始めようとしていた。

それまで流した涙のほんのほんのひと雫の分だけ…落ち着いた彼女は、一言一言、唇を噛み締めながら喋り出した。
「あの後…
自転車引いて歩いてたら…
思いっきり肩…
引っ張られて…
最初…
何が起きたか…
わかんなかったの……」
「……それって…どのへんで…?」
「…坂…上った辺りの駐車場のとこ……」
「どっち通ってったの?」
「覚えてない……」
「スポーツクラブみたいなとこの駐車場?」
「ううん…
違う…
と思う…。
暗かったし……
どこかわかんない……」
「そっか……」
「その時…
ビックリして…
自転車倒しちゃって…
…ごめんね…?
でも壊れたとこ…なかったよ?」
彼女はそう言って涙を溢れさせながら作り笑いを浮かべた。
「うん…でもそんな…自転車なんかどうだって良い……怪我は…?…しなかった?」
「…ちょっとだけ…
転んだ時…
擦りむいた…」
「どこ…?」
腕と膝のアザを見せる。
するとまた、震えが彼女を襲った。
ドアに映っていた四つん這いの自分、それと、もうひとつの影を思い出して…。
「俺が…全部忘れさせるから…」
─そんなの無理に決まってる…─
互いにそれは理解していた。
それでも彼はそう断言した。
「他にケガは?……させらんなかった?」
「うん…
けど…
怖くて…
声も…
出なくって…
何にも…
抵抗なんて…
出来なかったの………………
……ごめんなさい…」
「…怖かったよね…独りにして…ごめんね…」
彼はそっとそっと髪を撫でた。
「もし…抵抗なんかしてたらどうなってたかわかんないし…何持ってたかわかんないし…無事だったんだから…………」
そこで…彼は次に続く言葉を選び倦[あぐ]ねた。
間違っても…
─良かった─
なんて言える訳がない。
それに…彼女は
─生きてることを喜ぶべき?でも、死んだほうがマシ…─
ついさっきまで、否、今の今までそう考えていたのだから。
「だから…
電話…
出れなくって……
ごめんなさい…
…ほんとは…
帰りに乗った新幹線…
ホーム来た時…
飛び込もう…って…
思ったけど…
でも…
皆んなに迷惑掛けちゃうし…
部屋着いてからも…
色々考えたんだけど……
…………出来なかった…」
言葉にする毎にその時の苦しさが重くのし掛かり、そこで彼女は再び泣き崩れた。
「そんなこと…考えなくていいから…俺がずっと傍に付いてるから…」
彼はそっと抱き寄せた。
やっと…頬を寄せ合えた2人。
─こんな汚ない自分でも受け入れてくれるの…?─
そんな気がして、更に溢れ出した涙が彼の肩を濡らしてゆく。
彼の腕の中は物凄く居心地が良かった。
心地良くもあり、しかし、心苦しくもあった。
─こんな私じゃ…彼をも穢してしまう…─
そんな自分が許せなかった…。
『ごめんなさい…』
とKissを拒み、彼の腕の中から逃れようとしたのはそんな理由もある。
そして、今も彼から離れようと必死な彼女の頬を、彼は強引に押さえ付け、Kissをした。
─嫌いになんかなってない!─
それを証明するための、いつも優しいけれど、それ以上に優しい、涙味のKiss。
「イヤじゃないの…?……私なんかと…Kissするの…」
「何で?嫌な訳ない…」
「だって…汚れてんのよ…?」
「汚れてなんかないから…そんな風に思わないで…。それでも、もしそう思うんなら俺が綺麗にするから…」

何度も何度も…互いの傷を舐め合うように、彼は彼女に、彼女は彼に謝りながら、柔らかな唇を優しく優しく重ね合わせた。
そうするうちに彼女は、心も身体も、不浄な闇から解放されてゆくような幻想を、強く、キツく抱き締める彼の腕の中で抱いた。
やがて…
涙も枯れた彼女は、彼のKissにとろけるように身を預けた…。


当分の間、彼女は彼の住む街を再び訪れようという気になれる筈もなく、その分、彼が休日の度に仙台へ赴き、楽しい場所へお出掛けしてみたり、ただ一緒に部屋で過ごしたりしつつ彼女を気遣った。
その甲斐もあって、彼女の心の波は少しずつ少しずつ穏やかになっていった。


いつしか…
─彼を訪ねて行く…それなのに溜め息が出る…─
やっとそういう気持ちから解放された頃…
お出掛けの途中、ある駅に程近い住宅街の一画、
見覚えのある場所…。
彼はそこでスピードを緩め、こんな問いを投げ掛けた。
「前に自転車で転んだのって……このあたり…?」
みるみるうちに彼女の顔色が変わってゆく。
─間違いなく…このあたり…─
思い出したくもない、忘れたくても忘れられない場所。
「暗かったし……覚えてない…」
言うつもりはなかった。
言いたくもなかった。
けれど彼の車は、この辺りに幾つも点在している駐車場のひとつ、その前で
…ピタリ…
と停まる。
─え!?なんで!?なんでここって判る訳…!?─
ふとそんな疑問が浮かんだのは、彼女にしてみれば当然のこと…。
正確な場所なんて言っていないのだから…。
だから…これが…
─まさか…あの時の出来事って…!?─
彼に対し、そんな疑念を抱いてしまった瞬間…。
「ねぇ…?もう早く行こっ?」
その時は訊けなかった。

─そういえば…─
彼女は俯いたまま、助手席の窓から見えるその景色が早く過ぎ去ることを祈りつつ、あの日…彼が心配して来てくれた日…のKissの続きを思い返していた…。

つづく


2019/10/14 更新
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【参照】
該当語句なし
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【備考】
本文中に登場する、ねおが個人的に難読な文字、知らない人もいると思われる固有名称、またはねおが文中の雰囲気を演出するために使用した造語などに、振り仮名や注釈を付けることにしました。
尚、章によって注釈がない場合があります。

《本文中の表記の仕方》
例 : A[B ※C]

A…漢字/呼称など
B…振り仮名/読み方など(呼称など該当しない場合も有り)
C…数字(最下部の注釈に対応する数字が入る。参照すべき項目が無い場合も有り)

〈表記例〉
大凡[おおよそ]
胴窟[どうくつ※1]
サキュバス[※3]

《注釈の表記の仕方》
例 : ※CA[B]【造】…D

A,B,C…《本文中の表記の仕方》に同じ
D…その意味や解説、参考文など
【造】…ねおが勝手に作った造語であることを意味する(該当のない場合も有り)

〈表記例〉
※1胴窟[どうくつ]【造】…胴体に空いた洞窟のような孔。転じて“膣”のこと

※3サキュバス…SEXを通じ男性を誘惑するために、女性の形で夢の中に現れると言われている空想上の悪魔。女夢魔、女淫魔。

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