【育児日記回想録】気がついたら「ママという役割意識」を卒業していた話
こんにちは。
かほこママのVoicyを聴きながら嫌いな家事をするのを日課にしたら、キリの良いところまで聞くために家事時間が伸びて、ちょっとだけ家事好きっぽくなった、ゆっか(@neotenylab)です。
今日の放送内容を聞いて、昨日書いたnoteに載せていた育児日記の内容を思うところがあったので、ちょっと書いときます。
人生相談のなかであった、母、妻、社会人という自分の役割をどう切り替えるのか?という質問。
これに対してのかほこママの回答があったのですが、その答えが、
そもそも役割を切り替えない。演じない。自分を生きる。でした。
「母親」として自己洗脳していたわたし
「ママタレント」で、ママっぽい自分を演出するのではなく、他でもない自分自身を生きる。
この言葉に、すごい共感を持つとともに、思い出したのが、昨日載せた自分の育児日記。
「母、妻、女、一個人。使い分けでも、切り替えでもなく。等価値で同時進行。同じ場所で別の世界」
役割を果たしたいけれど、切り替えられない。かほこママへの質問者さんにかなり近い状態でした。
わたしはいま、もう理想の母親を目指すことはすっぱりとやめています。
昨日だって、子供たちの希望で夕食はホットケーキ。今朝の朝食はその残りの冷凍したホットケーキ(これも本人たちの希望。好物らしい)、そのまんまです。
栄養とかしつけを考えたら、母親らしく夕食かくあるべし、とか言うべきなんだろうけど、私自身、栄養なんて1日でパーフェクトに満たす必要はないと思っているので、思ってないことを演じたりはしないわけです。
でも、上の日記を書いていた頃は、違います。
めっちゃ、「母親」してました。
この日記とか完全にそう。
なにを50回も座らせとんねん…アホか。
もっと早く匙投げろ、っていうかアンタ38歳の今も立ってクッキーとか余裕で食べてるよ…
まじ、全力で当時の自分にツッコミたい。
でもねー、これ、ほんと、当時は真剣に本気で真面目にやってるんだよね。
だって、たしか悩みすぎてNHKのすくすく子育てに悩み相談して、一家揃って出演したからね 笑
で、汐見先生に「まあまあ…勝負じゃないんだから…」と諌められたからね。
それでも、わからなかった。わからんちんだったんです。
母親養成ギブスのようなものだったのかも
でもね、思うんです。
じゃあ、はじめから「自分を生きていたらよかった」のかって。
その答えを考えるとき、少なくとも私は違うかな、と思います。
わたし、子供産む前は、正月にベッドに寝そべってドリトス食ってるような女だった。
旦那に花を贈られても「は?なんで花?」とか包みのままテーブルに置いちゃう女だった。
徹夜でゲーム音楽をヘッドホンして聴きながら絵を描いてるのが人生の幸福だった女なんです。
つーか、女に間違えて生まれてきた女だったんですよ…。
もし、子供が生まれてもそのまんま「自分」を生きていたら、
完全に死んでたでしょうね。親(人)として。
生命の仕組みはマジで賢い
でも、その心配はなかった。
だってね、そんな生き方、当の「赤ちゃんが許さなかった」から。
もちろん、ダメ親選手権の優勝候補みたいな人間が、今日二人の母親や、子供向けの企画とかできるようになったのは、カリスマくってるすばらしいママ先輩の方々のおかげです(感謝してもし尽くしきれない……)。
ただその前に、授かった瞬間からはじまった、赤ちゃん本人のスパルタ親育がほんとすごかった。
と言うのは、私が上の日記で、母親という役割意識に洗脳されるには、以下のようなステップがありました。
1)妊娠中につわりや重度の妊娠性痒疹で動けない…自分のペースがリセットされる。食べ物のせいかも、と食材選びや料理を頑張り始める
2)産後置くと起きる、エンドレスかまってちゃん性格…24時間子供のことだけ考え続ける、どうしたらぐずらないかいろいろ調べては試す
3)度々おっぱいつまる…健康的な生活リズムや食生活について考え直す
4)飲むたびに放つオムツ替え1000本ノック…汚いとか面倒とか、あらゆる感覚が麻痺
5)離乳食食べない、すぐ立つ、食器投げる…怒らないよう自己改革(まだできてないけど開始した的な意味で)、料理に創意工夫(効果なし)。
つまり、神に選ばれて手がかかる系の赤ちゃんを授けてくださったおかげで、めっちゃ自分をぶっこわされて、作り変えさせられた。
(写真は旦那撮影。結婚記念日に毎年撮っていたが、私が寝落ちしていた)
結婚でもぶっ壊されましたけど、まだまだ足りなかったということです。
ある意味、追い詰められもしたんですが、成長って、作っては壊すの繰り返しでしかできないことを考えると、人一倍こだわりが強くて、がんこだった私には、「ぶっこわしてくれる家族」が必要だったのでしょう。
で、子育ての間にも、このぶっ壊しと立て直しがいっぱいあった。
イヤイヤ期なんかも1000本ノックなんだけど、オムツでは無心でできる肉体系だったのが、イヤイヤは忍耐と機転が試されるメンタル面での修行で。
後から来る方がちゃんと難しくなってて、過去の自分のやり方では通用しなくなってて、成長ステージを上がるたびに、はい、またゼロからガンバッテー。体動かせばいいってもんじゃないからねー、と。
なんだこのライザップ。
結果にコミットする。常にコミットしすぎてる感すごい。当たり前ですけどね、向こうは命かかかってますから。
自己主張期で積み上げてきた「母親という役割」を破壊
で、幼児期最後の山場に来る自己主張の時期は、「なんで?」が連発される時期がくる。
ここはもう、肉体でも忍耐でも機転でもダメ。
理屈。理屈が出て来る。
なぜ、そうなのかを、幼児にわかるように説明しなきゃいけない。
正直、母親の役割として演じきって、これを「子供は親の言うことを聞くものだから」で押し通すこともできると思う。
実際王道だよね。「そういうもの」として教えるのが一番平和。
でも、わたしは、その意見自体に反対だった 笑
だって、やだもん、自分自身が。親の言うことなんて聞かないし、聞いてきてない 笑
というわけで、私という人間はどうしてこうして欲しいと思っているのか、なぜこれをしてはいけないと伝えるのか、それを離乳食並みに意味をゲル状に噛み砕いて説明しなけらばならないという、毎日何ラウンドも激論(相手は基本「でもやだ」しか言わない)バトルを繰り広げているうちにですね…
(注:これが正解とは思ってないです。専門家は一般的に幼児にグダグダ話すなが大勢の意見です)
母親って役割としての仮面が、消えた。
だから、話戻ってかほこママと同じ、役割をそもそも使い分けてない、切り替えることはない、って状態です。自分自身でしかないです、もう。
我が子による長期自己啓発ライザップ、卒業です。
ちなみにこれは2ターン目の今のことで、一人目のときは、すでに次女が生まれてたから、まだ「母親」してたけどね。
演じて生きることでしか実現できないこともある
ただ、この母親を卒業する方がいいかどうか、っていうと、それはちょっとわからない。
その方が幸せな関係もあるし、生涯を誰かの役割として生きる、それを望む人もいると思う。
ただ、わたしもかほこママが好きなように、自分軸で新しいことを考えて形にするのが好きな人間だから、卒業してよかったと思う。
ただ、そのときはそれが必要だったから、ギブスして正解だったと思うし、
今はそのせいで子育てで一番大事と言われる
「一貫性」と「子供にとっての安全基地」としての能力は、正直低い。
多分今の状態では、スポーツ選手みたいに家族の協力や伴走が必要な職業に子供を就かせるのは、無理だと思う。
だから、家族のチームプレーで子供を競争に勝たせる、みたいなフィールドでの戦いをを子供が望んだときは、もしかしたらまた腹をくくって仮面被るかもしれない。
だから、先のことなんてわからない。正解なんてない。
でも、それでいいんじゃない?
専業主婦とワーママってくくりもだけど、何者として生きるかなんて、その瞬間の自分自身に一番しっくりくれば、それでいい。
とりあえず、ママという選択肢をくれた、君に。ありがとう。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。