「撮りたい」より「写したい」

最近、自分は写真を「撮」りたいのではなく、
「写」したいのだと気づいた。

よりきれいなモデルに置き換わるなら、その方が完成度が高くなるような、
広義の顔ハメ写真的な演出に違和感を覚えたり、

子持ちママの写真=カワイイ・ゆるゆる・キラキラ系

みたいなイメージにモヤモヤしてしまうのも、きっとそれが原因だ。

もちろん、そういうジャンルはファンも多い確立された世界だし、
顔ハメ写真やコスプレ的な演出は、
わたしも参加すると楽しいから大好き。

でも、自分がカメラ側に立つときは、

こちらが用意した舞台に、こちらが想定した役割を演じてもらう

そういうシナリオありきな演出には、もえない。

舞台はぶっ壊されるためにある。
役割は無視されるためにある。

そういう展開にもえる。

破壊された舞台の上で、被写体が自ら演じ始めた時、
もはやその舞台で、彼・彼女を置き換えることは不可能で、
わたしはただひたすら受け身に徹して「写す」ことができる。

ただ、オーディエンスとして、最高の席を探す。

そんなわがままが通用するから写真が好き。

だなんて、カメラってほんと、人の本性出すね。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。