「私写真」を公開するということ

写真を撮っている人にとって、衝撃的な#MeToo、

KaoRi.さんのnoteを読みました。

※この記事自体は、4/8に書いたものです。
Kaori.さんご本人のご承諾を問い合わせ中でした。
4/23朝、許可のお返事をいただけたので、公開します。

内容はあえて要約しません。
上にリンクがあるので、全文読んで欲しいです。

この記事では、KaoRi.さんの告白を読んで表現者として思ったこと、気づかされたこと、同じ表現者として活動する方に伝えたいことを書きました。

表現の自由と関わる人たちの尊厳。それは避けられない問題でありながら、デリケートであるがゆえに、あまり語られない領域です。

わたしも「こども」という未来ある人間を対象にしているため、撮られる人の尊厳についてはいつも心にありました。

同時に、表現への欲望もあり、さじ加減はそのとき次第。そんなけして美しいとは言えない内側を言葉にするのには怖さもありました。

しかし、KaoRi.さんの勇気ある告白を見て、撮る側の人間が読んでいながら黙っているってどうなんだろう?と思い、今の想いを書くことに決めました。

身近な人を題材に作品を撮る「加害者候補」の一人としての意見です。

特に自分の生活や身近な方を題材にして作品を作っている方には、ぜひ一緒に考えてもらえたらと思っています。

長い文章になるので、まずはKaori.さんのnoteをご覧になった上で、お時間のあるときにご覧ください。

自分のプライベートを主題に、虚実入り混じるリアリティが見るものの感情を揺さぶる「私写真」。

「写」す「真」実と書くことをルーツとするように思われる、虚実の境界をあやふやさにフォーカスした表現方法は、日本の写真史の中心的な流れでもあり、

芸術にナラティブ(物語性)を求める、日本的な写真表現の代表とも言えるジャンルです。

私の写真も、「作品」として撮っているものは、このジャンルに属するものです。

演出された予定調和ではないビジュアルを求める気持ち、美醜も清濁もあわせ飲んだ世界を美しいと感じる気持ちは、彼の写真表現に強い影響を受けています。

良い写真を撮るために写真は被写体との関係が重要ですが、気持ちとお互いの意図が通じ合っていれば良い写真になるかと言えば、実はそうばかりとも言えません。

通じ合っている写真が王道としてあるからこそ、撮られる側の意図を超えた、ズレたビジュアルは強烈で忘れられない印象を見る人にもたらす力があります。

私自身、モデルを裏切った瞬間にこそ、印象的なビジュアルが生まれる事実に直面することもしばしばありました。

下の写真(イヤイヤ期系の写真)はその一例です。子供が親に反抗しているとき、写真に撮って励ますことでプラスに働くこともあるのですが、機嫌が直ると同時に印象的なビジュアルも終わります。

だから、写真家の間では、撮影禁止の場所にこっそり持ち込んで撮影、被写体に怒られて(当時は)ネガを全部没収されたが一つだけは守りきれた→それを発表、みたいなことは武勇伝。

相手の意図しない姿を引き出す、狩り獲る行為は、写真家にとっては評価の対象になるのです。

でも撮っている最中にすら、被写体に見られている自分を意識し、迷ったらカメラを下ろしてしまうタイプの私にとっては、こういう話を聞くたびに、自分は写真家にはなれない…と沈み、突き抜けた表現が評価されるのを見るたびに、自分はその一線が超えられないからダメなのだと落ち込みました。

子供が生まれ、被写体が自分の子どもに移ってからは、さらに迷うようになりました。子供は私から生まれたと行っても別の人格と人生を背負った人間だからです。

私個人がヌードも美しい、と言っても、別の視線が投げかけられる可能性がある以上、安易な公開はできません。将来、子供の友達や恋人が見たときにどう感じるかなど、見る人の受け取り方をコントロールすることはできません

何より、ママとべったりの今は本人が「いいよ」と言っていても、思春期に入れば、「勘弁して」となる可能性だってあるわけです。

上の娘もあと数年で思春期。

「ママ相手の仕事」としてフォトグラファーを名乗るとき、本名顔出しを要求されることが多いです。

不安の強いママたちに信頼してもらうために必要なことではありますが、親が実名を出すことで、自分の子供の匿名性を保つのが難しいな、と悩ましく思っています。

親は子供にとっては権力です。

KaoRiさんが感じたような想いを、親に抱く可能性だって当然ある。

むしろ、これは「私写真」はモデル料を払ったら「私」的な関係性が失われるから興ざめである、という写真家のワガママな想いと、「家族的な甘え」が産んだ悲劇です。

家族関係であれば、モデル料を払うことも、契約書を交わすこともない(作ってもそもそも書く親権者も自分)ので、もっと根深い闇が生まれかねません。

あと一年くらいすれば、子供自身が「自分をこう見せたい」という意識を強く持つようになってくるでしょう。

我が家でも、長女にはこれから、

・意識的なモデルとして、作品を一緒に作るのか

・作品世界からは離れていくのか

・過去の作品はどうするのか

親子ではなく撮影者とモデルとして、怖いですが、しっかり話をする時間をとる必要がある、と思っています。

#ME Tooとして公開された内容なので、男女の問題として見られる方が多いかもしれませんが、自分の子供を被写体とする私としては、女性も子供に対してはむしろ加害者側になる可能性もある、「一方が支配権を握っている私的な関係」であれば、誰にでも起こりうる問題だと受け取りました。
※KaoRi.さんも、告白の結びで「男」ではなく、「自分より立場の弱い人の意見を遮らないで」と書いています(この投稿の末尾参照)

きっと、数年後、十年以外くらいには親子関係において、同じような告白がブームになってもおかしくない。親子関係も、男女と同じ、もしくはそれ以上に「言いたくても言えない」悲劇を孕んでいる関係です。

子供が成人して、大人と大人として再接続するまで、わたしにとってもこれは他人事ではありません。

現時点では、私の場合は、Webのオープンな場所で公開する、撮影者と親子関係が推測される写真において、下記ガイドラインに則って子供の写真を載せています。

・目が開いていて顔立ちがハッキリわかるものは、今と髪型や背格好が異なる昔のものに限る

・自宅近辺で地名が分かる背景は避ける

・子供の名前は載せない

・泣き顔など、本人にとって不本意な表情は3歳代まで

・演出のない生活の様子が伺える写真は就学前まで(写真によっては同意を得て撮影)

自重する一方で、隠しすぎることで過剰反応を助長してしまう可能性、
「良い子」だけを認める空気を出さないように、気をつけています。

ただでさえ、広告イメージでは理想的な子供像であふれているので、
私としては、どろんこ、小さなケガ、散らかし行為、子供らしいおふざけは大好きで、見ただけで人を傷つける行動でなければ、親の理想を自由にはみだす子どもの姿を、写真を通して進んで肯定したい。

子ども=笑顔で楽しい=あるべき姿

ではない、悲しみに惹かれる心や、大人には立ち入って欲しくない世界にこそ存在する「子供時代」という、人の心のねっこに触れたい。

むしろ、この親の身勝手さと、それを乗り越えていく子供の姿を、自分の親子関係を崩さない範囲で表現したいとすら思っています。

芸術家なら何をしてもいいわけではない。

けれども、芸術の持つ「固定観念を超越した視点」を、
忖度しすぎて失いたくはないし、何でもかんでも匿名にすることが良いとも思いません。

問題は、モデルと被写体の関係性であって、芸術的な写真表現そのもの(常識的でないビジュアル)ではありません。
ここは、論点がずれて欲しくないなあと願っているところです。

KaoRi.さんの勇気ある発言に敬意を評します。

娘には、撮る側の想いを知っているからこそ、私の撮る写真に写り続けたいかと合わせて、相手が誰であっても撮られる側の人間としての尊厳を大切にすることを伝えるつもりです。

踊ることが大好きな娘にも、KaoRiさんのバレエ、見に行かせたいな。

ぜひ、ニュースサイトにある、写真家についての言及が中心の要約ではなく、KaoRiさんの告白を直接読んでください

特に結びは、表現する全ての人の心に刺さると思います。



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ゆっか

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