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対人支援は、クライアントの「成功」を目指すべきか?

親や教師、コーチなど、マイナスからゼロ以上のためのはたらきかけを行う対人支援の文脈で、「成功」という言葉が目指すべき指標として使われるのは、わりと当たり前のように見える。

この言葉は、「成功とは何か?」という指標も定義も曖昧なまま使われている、単に閲覧や購入を刺激するためのパワーワードなだけな感もあるけれど、

そこで語られている「成功」とは、だいたい個人が社会の中で相対的に優位な立場に立つことを意味していて、「お金持ち」と同様、奪い合う資源に類するものに見える。

それは、すべての親、教師、コーチが支援者としてそれをやったら、もはやポケモンバトルの様相となるような、定義だ。

それが「人に尊敬されること」であれ、「人に感謝されること」であれ、誰かと比べることが求められる指標は、確認するためには、自分より劣っていると思われる人を探す必要がある。

目標という擬似餌をぶらさげさせつつ、その実、いつも自分より下にいる誰かを探させてしまうなんて、正直、対人支援に強い関心を持っている人間としては、なんとも不毛な気持ちになる指標だ。

まあ、それで自分が支援した人が成功したら、今度はそれで失敗扱いされた人を支援すればいいから無限に稼げるじゃん!って思うこともできるだろうけど、もはやそれは詐欺だろう。

じゃあ、マイナスからゼロ以上の向かう先って、「成功」以外に何があるんだろうか?

畑をいじってて思うことなんだけど、この成功させるための情報としてよく出回っている「成功法則」って、畑にこの問題を置き換えて考えると、

特定の個人を成功させようとするための「成功者を調べて共通点をみつけよう!」って調べ方自体が、畑から母本選抜できるレベルの優良収穫物だけを各地から集めて共通点を見つけようとするくらい無意味なことだと思うんだよね。

「見た目がきれい!」「おいしい!」「大根らしい味がする!」「手をかけて育てられた!」

そりゃそうでしょうよ。1番うまく育った一本なんだから。

いや、畑じゃなくてもいい。成功者の法則で良くある、「リスクを取れる」「ポジティブシンキング」「未来志向」とかも、ギャンブラーの群れから一発当てた人だけ集めて調べても同じことが言えるだろう。

それを調べたところで、再現性につながる情報は得られない。誰かをギャンブルで成功させたいなら、やろうとしているギャンブルそのものの仕組みや、どの程度の資金をどのように入れるかとかそういう話が必要だ。

畑に話を戻すなら、それは土壌であり、周辺の作物や生き物であり、風土だろう。すごく良くできた作物の特徴は役に立たないが、土地の土の質や気候風土を知ることは、種まきのタイミングなど介入の調整に役立つ。

使うのが化成肥料であれ、そこに生えた草であれ、介入する対象のパフォーマンスにのみにフォーカスして特定の場所だけを肥えさせることは、土壌のバランスを崩し、病気を招く。

介入者が対象の状態だけを見て手を入れることは、場を乱すばかりで、最終的には介入対象にすら何も残さず、命を奪うことだってあるのだ。

で、対人支援に関心がある人間として思う、今のところ確信していることは、対人支援の枠組み自体が、特定の個人のパフォーマンスを個人に帰結する問題だとフレームしていること自体に限界があるということだ(既にいろんな論者が指摘しているのである程度の普遍性が見込め、さらに自分の経験的実感に合致するから単なる主観ではない=「確信」と書いている。誰か偉いっぽい人が言っている=真実ではないし、確信はできない)。

介入者がプロフェッショナルであるがゆえに、契約関係の明確化のために介入相手を個人として場から切り離して扱えば扱うほど、彼彼女とつながる場が乱れ、問題がこじれていくという問題だ。しかもそこはプライバシーに属することなので、プロは立ち入ることができない。

畑をすれば、自然と地域の環境に目が向く。親になると、子どもの置かれた時代性や環境に働きかけたくなる。

この焦点の変化は、すごく自然なことで、多分間違っていない。やっていれば、早々にそう気づかせられることに直面するからだ。

でも、これが支援「業」になると、とたんに難しくなる。それは契約範囲外だし、フレームが大きくなれば効果測定も困難になる。

支援された方は、支援者(コーチなど)を変える自由があるため、相手の問題として処理しやすいし、支援する方も、メソッドとの相性が悪かったと、例外処理すれば済んでしまうのも、個の次元を越えて場にフォーカスする動機を妨げる。

では、対人支援は「業」としては無力なのだろうか?

たしかに「成功」のような競争的で個が回収してしまう指標に焦点を当てることによる弊害は存在するけれど、「業」としてしがらみのない第三者にしかできないこともあると思う。

そして、多分それが、プライベートな対人支援(親)をしながら、「業」としての対人支援に、個人的に強い興味を持っている理由だ。近すぎる対人支援では、近すぎるゆえにできないことがあるのだ。

この日記では、なんか「業」としての対人支援をディスっているように見えてしまうかもしれない。

しかし、既に仕事として成立しており、たくさんの人が従事してその数も増えているのは、全員が詐欺師でない限り(そんなことはあり得ないだろう)、そこには替えがたい価値があるはずだ。

それは、またべつの日記で書こうと思う。
とりあえず、仕事の文章書く前に頭を空にしたかっただけなので、今日はここまで。



自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。