ビデオゲームでのメタ時点と考慮要素たち

*この記事はイェスパー・ユールの「ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム」から多く影響されていて、虚構世界などの用語はこの本から借りています。エイジェンシーという用語の場合、プレイヤー・エイジェンシーというゲーム専門用語ではなく「代理人」や「代理会社」という一般的な意味に近くなっております。厳密性の無いアイデアメモのようなもんです。

ゲームではしばしば、NPCがプレイヤーに向けて「あなたが殺したんだ」と非難するとか、UIウィンドウにYouと表記して話掛けるような、メタ的な時点を確保しよとする試しが存在する。メタ的な接近そのものは好むものの、この方法ではちょっとチープな試みじゃないのか、と思う。そういう手では簡単にプレイヤーの罪悪感を刺激するのは出来ても、哲学的には一歩後退だと思うからである。つまり、ここではメタ時点を確保する事・自己言及的な性質を目指すゲームの場合、その哲学的な発展のため考慮すべき要素について書こうとする。これはゲームの批評へも役に立つだろう。

なぜ上のような例えが哲学的一歩後退なんだろうか。そうやってゲームの虚構世界の中で行われてイベントをプレイヤーの責任として取る場合、必然的にプレイアブル・キャラクター(以下PC)が排除されたり隠蔽されるからである。ゲームの中で「YOU」がプレイヤーの分身=アバターだとしても、その分身とはある意志の代理遂行者だ。だから、PCはいくらなんでもプレイヤー自身には還元されない。意志そのものであるプレイヤー、それを代理遂行する能力のPC、そしてプレイヤーとPCを繋ぐ(コントローラーを含む)インターフェースが全部揃えたときにこそ、ゲームは初めて成り立てるんだろう。

その故にPCがいくら自由にカスタマイズ出来るアバターだとしても、ゲームの虚構世界の中でそれなりの位置・性格・能力などが与えられる必要がある(これは「勇者」だとか、「犯罪者」ぐらいでもいいだろう)。一応PCの存在が明らかになると、その遂行能力の活用方向を決定する、もしくは目的一部の奇跡的な一致によってキャラクターを助ける「背後霊としてのプレイヤー」も明らかになる。老婆心で言えば、ここで「エージェンシーとしてのPC」だけに焦点を合わせればテーマは代理戦争に限定される。その上、今度はプレイヤーの意志が排除・隠蔽されることが起きる。勿論、PCそのものが存在しないゲーム、複数のユニットを扱ってプレイヤー意志の代理遂行が人格的な存在によって行われることのない、シミュレーションやカードゲームなどのジャンルなどもあるが、その場合はまずは論じない事にしよう。

じゃあ、PCの位置付けについてちょっと具体的な例を上げてみましょう。ゲーム<GTA>は犯罪者になって、自分勝手に人を殴ったり車を盗んだりそれで稼げた金で都市で色んな生活を楽しんだりするゲームだ。そのシリーズの最新作<GTA V>で登場するキャラクター「トレバー」はこのプレイヤーの行動を気にして位置付けられたとも言える。彼は何気なく暴力を振る舞い、周りを気にせず自分がやりたい放題やっちゃう寄行が特徴なキャラクターだ。これは、前作までそうやって遊んでいたプレイヤーの行動を映る鏡のような性格なのだ。プレイヤーの中ではここまで自分勝手なキャラクターは不気味だと言う意見もあるが、トレバーをプレイするとどんな変な行動をやっても納得が行く。彼は最初から変人だからだ。メタ的な時点を確保するときも、このような虚構世界(ゲーム世界)での納得が行く設定や語りが必要となるだろう。上に上げた罪悪感の事を言うと、つまりは、どうしてPCはそういう罪悪感を感じるような事がゲームの虚構世界で出来たんだろうと問わなきゃ行けない。もうひとつ、「背後霊としてのプレイヤー」と「エージェンシーとしてのPC」、意志と能力をつなぐチャンネルであるインターフェースがどんなにプレイヤーとPCを接近させ、そしてそのチャンネルでは結べないプレイヤーとPCの間の断絶は如何なるものなのか、考えるべきだろう。

それからもっと進み、ステージデザインなどを含むゲームデザインもまた、メタ的な時点を確保するのに考慮すべき対象だ。ゲームデザインとはつまり、そのゲーム世界の規則であり構造だ。そのゲームデザインの中でプレイヤーは自分の選択を行い、またプレイヤーの行動(Action)がない限りゲームは活性化されないので、ゲームデザインとプレイヤーは共生・共犯の関係だ。なので、暴力的行為を行わないと何の変化も起きない環境にプレイヤーを投げてたあとに「お前は殺戮が大好きなのだ!」とか「人間はその本性が暴力的だ!」と言っても無意味であろう。例えば、プレイヤーに他の手段が与えられたしても暴力的な問題解決を選んだんだろうか。暴力手段にすごくレアであり破壊し易いんだとしても?暴力に必要な資源(スタミナ等)の管理が難しくても?または、暴力的な解決を行うと次のステージが難しくなっても?そのようなゲームデザインの下に置いていたら、だいたいプレイヤーは暴力的な問題解決を避けるのであろう。実際例としては、非殺傷プレイを強要するステルスゲームなどが挙げられるんだろう。

君は自由に選択したから、君はそれに対して責任を取るべきだ、という命題はそれらしく聞こえる。だが、そうなると、経済システムを通じて行動Actionに伴う結果Consequenceー報酬や処罰などを作り出し、ある行動をするように誘導するゲームデザインは必要ないだろう。その「自由」を「侵害」する規約(規則)だから。でも、そのようなゲームデザインがない無限に自由な空間では、果たしてプレイヤーの責任というものが存在するんだろうか。むしろ、ゲームデザインが無効化されるなら、そのときプレイヤーの責任も無効化されるのではないか。この問題は、上で論外とした「人格的なPCが存在しないジャンルのゲーム」でも同じであり、そのシミュレーションゲームでも「行動ー結果」は存在し、そのようなゲームデザインの中でプレイヤーの責任が問われるといえるんだろう。

ちなみに言うと、だから<メタ的な接近をしようとするゲームは必ず色んな選択肢を与えるべきだ>と言うのではない。それよりはむしろ、<メタ的な時点を確保しようとするゲームはそのゲームデザイン=規則に自覚的であるべきだ>ということだ。色んな選択肢が増えるというのは、規則の変形や発展に属するもので規則そのものへの悩み・その悩みの表現ではない。例えてしてわかり易く言うのなら、「ザ・スタンリーパラボー」は「エルダースクロールV:スカイリム」のように自由度が高いゲームではない。そこでやれる行動は道を歩く・道を選ぶ(場合によってボタンを押す)などの簡単な操作であり、ステージもそこまで迷路のようになってはいない。でも、「ザ・スタンリーパラボー」のほうがその規則にもっと自覚的で、それをプレイヤーに知らせようとしている。

インタラクティブが可能な媒体としてのゲームはこのような問題意識を浮かび上げ、ゲームだけではなく色んな媒体での人間と虚構世界への関係を再考させようとしてくれる。メタ的な時点を確保するゲームはそれ自体がゲームというジャンルへの批評になり、上に並べたような可能性を考えると、もう得られている安全な効果に満足するのではない、もっと未探索のフロンティアの領域まで進む必要がある。

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DavidSun

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