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分類のコミュニティ


1999年にイギリスの政府機関が作成した報告書の中にある一文「Bridging the Gap:New Opportunities for 16-18 years olds not in education, employment or training」から生まれた言葉ニート(not in education, employment or trainingの頭文字)は瞬く間に日本社会に浸透した。

あたかもその言葉の出現を待っていたのではないかとも思えるほどの反応である。日本社会というものは「分類のコミュニティ」であり、それその人・事象が一体どの既存分類枠に入っているかという事によって、新たに出現したものが認識されていく。

分類の社会というものは、ものごとの中身を見て理解するのではなく、その分類されたラベルによって理解したと各々が感じられれば十分で、言いかえればその本質などおよそ、どうでもいいのである。それゆえに、既存の枠に当てはまらない要素というものに出会うと非常に困惑してしまうのである。そして、それを、体よく、排除する。


そもそもニートというのは、教育、労働、職業訓練のいずれにも参加していない状態を指し、発信元のイギリスと若干異なって日本においては15歳~34歳の若年層において議論されてきた。それまで、どの枠にもあてはまらずラベルすら貼れない、いわばエイリアンの如し彼・彼女らは立派な分類をされることによって、ようやく社会に認知され受け入れられるようになったのである。分類社会は分類することが主たる目的であり、それが波及する事、根本要素にまで追及しないのが暗黙の了解になっている。もちろん特殊事例を除き、人はみな名前という個々人のラベルを持っているのだが、共通項としてのラベルでない限り社会的なラベルとしての意味はなさない。名前はしごく曖昧なラベルなのである。

これは分類社会に生きる人間にとって、ニート側であれ非ニートであれ非常に都合の良いことなのだ。エイリアンは自身自分が何者であるのかという問いに対してラベルを持て、満足するという社会構造。しかし逆にそれは、それで満足できる社会状態に陥ってしまっていることを意味している。おそらく先の定義でいえば有史上ニートに該当するような者はいつの時代でもいたであろうし、その数の推移は何か世相を反映しているのは確かなことだろう。ニート出現以前のニートを見るに、困難な時代にしかニートが存在してきたのではなく、ニート層にまで目を向けられる余裕があるかないかというだけの話なのだろう。

現代社会では曖昧なラベルが幾重にも貼られ、それを覆うようにまた新たなラベルが貼られる。ラベルはそうしてどんどんと曖昧さをまし、もはやただの文字列にしかならなくなるだろう。ラベルを貼るのは分類上結構な事であるが、一方でそのラベルを剥がした時表れるものと対峙することこそ曖昧さを排除する唯一の方法ではなかろうか。

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