見出し画像

スターゲイザー scene 5

5.回路      

    曳馬太一という役者の事を考える。声、顔、体、その表情動きの全てを思い描いてみる。それに『Make a wish!』という枠組みを、別の名前を与えてみる。『男』。曳馬の役名はただの男。設定は40代のサラリーマン。生き別れた娘を探している。彼はもうすぐ不治の病で死ぬから、娘に一目会いたい。八方手をつくして手がかりもなく、『男』はたまたま目にした修道院へと足を踏み入れる。男はそこでひとりの修道女と遭遇する。これが上島の演じる『シスター』。芝居はだいたいこの二人の会話劇になる。
    学生時代からずっと住み続けているアパートで、扇風機の強風が宇希の汗ばんだ首筋に規則的に吹き付けている。夏の火照りがいつまでも消えない街は、秋になってもいっこうに涼しくならない。彼女の生まれた町では9月になれば、秋の冷気も色濃くなったというのに。
   パソコンのキーボードを前に座っているが、画面は省エネモードになったままだ。宇希は曳馬太一の事を考えていた。
 部屋にはずっとニルヴァーナのCDが小さく流れていた。曳馬が高校時代心酔していたバンド。宇希の背は無意識のうちに揺れている。曳馬はかつてそのバンドのボーカルを真似た(らしい)長髪にだらしない格好を好み、気怠さをアクセサリーみたいに身につけた。大学2年生の夏に、ピストル自殺したボーカリストの巡礼をするのだと渡米した際、余りの怪しげな様相のため彼は入国を拒否されてしまった。日本から来た大学生が、入国審査官には麻薬中毒者にみえたらしい。もちろん彼に『実績』はない。ただの19歳の学生が怪しすぎるという理由で送還されたのだ。アメリカにいるはずの彼が、真夏の日本を徘徊するのが目撃され、曳馬は二人いるという説がまことしやかに囁かれた。宇希がまだ曳馬に会う前の話だが、その当時の彼を想像するのは容易だった。ジャンキー崩れの彼も、アメリカと日本に同時に存在する彼も。
   思えば不思議な男だった。
   誰からも好かれるのに、一方では避けられる。骨の太い男くさい雰囲気で、筋の通らないことは嫌う。周りを困惑させる自由勝手な振る舞いの中にも、彼なりに曲がらないものがある。それが、何なのか宇希は興味を、いやハーメルンの笛吹き男の笛につられて、何処へともなく誘われる子どもみたいにそれに魅かれていった。
   曳馬の好きなもの興味のあるものには、無条件で追随した。自分の興味や好みの範囲から大きく外れていても、彼が好きだと言ったものはとりあえず手にとってみた。ニルヴァーナも、アマチュアバンドがこぞって演奏するのあの曲のバンドという認識しかなかったのに、曳馬が『信者』だと言えば、カート・コバーンは自分にとっても『教祖』になった。邪道だったが、そこにあるのは曳馬の目で物を見たいという欲求だった。その知識、感性、表現、好きな物嫌いな物、そのどれもを飲み込んでしまいたかった。
   それでも、笛の音の秘密は分からない。ただ、彼に盲従した人間の一人として、確信を持って言えることを一つ見つけた。彼の側に残れる者は、本質的に彼と『対等』な人間だけだということだ。曳馬の周りを賑やかす有象無象の学生、中にはファンだと言って貢いでくる子さえいた。彼等は簡単に受け入れられて、簡単に消えて行った。曳馬は、いつだって自分にだけ従って生きていた。
   孤独になることを怖れたことのない人間。
   今、『役者』として宇希に差し出されているのは、そういう男なのだ。
  曲は何度目かのループをし、CDプレーヤーから最初に戻る、小人の内緒話みたいなノイズが漏れた。
   曳馬太一の事を考える。
ー俺にはオヤジが二人いたんだ。
  いつだったか、彼は家族のことを話し始めた。冬の曇った日だったことは覚えている。彼の実家のある北陸の空は、いつもこんな天気だったと言ったのだ。それからただ事実を淡々と並べるように語った。こちらに何を求めるでもなく、重たい空から雪の最初のひとひらが溢れ、そこからとめどなく地上へと落ちて積もるように、どうしようもなく当たり前みたいに。普通の再婚家庭(普通の再婚があるとすればだが)の話ではなかった。家族は文字通り痛めつけられ、彼は二人の父親の間で激しい人間不信に陥ることとなった。
ー俺はお袋の味方でいなきゃいけないと思ってるのに、ふとした瞬間、この人が他人だったら楽だったろうなって、思う時があって、寒気がした。‥‥誰かを悪もんにしなきゃやり過ごせないなら、それは親父達でいいのに。
  宇希には、とても受け止めきれない話だった。返す言葉さえ見つからなくて、それでも月並みの質問をこさえてみた。それに対して曳馬は、
ー例えばさ、俺も父親がいないやつの気持ちは、本当には分からんけ。だから、父親がふたりいるやつの気持ちなんて、わからないのが当然やろ。
と怠そうに笑ったのだった。
  その笑い方、顔の角度、目線と息。あれは彼の演技だ。それもただの演技じゃない。彼が彼本人の皮膚にすべく被った、仮面だ。それを外さないことが彼を彼足らしめる、そういう種類の演技だ。
   あの時、同情も共感も慰めも、何ひとつ彼に差し出せるものはなかったし、今だってない。今まで長い時間、目を凝らして曳馬を見ていた、知ろうとしていた。あの時の直感は、間違っていないと宇希は思う。あの仮面の下に痛みがある。それに寄り添った時、彼の物語が書ける。
    集中する。脳の回路が開く。
   彼の中の何かと、自分の中の何かが混ざり合っていく、『ここで』。書きかけの台本の中に、曳馬太一という人間が息をして、姿を持つ。宇希は彼の仮面のぴったりはまった繋ぎ目に爪を入れて、指先で元の皮膚に触れる。そっと触れる。何度も何度も触れる。本当の皮膚で感じることを彼に思い出させるように。そしてその皮膚の感覚こそが、彼の語るべき言葉。
   やがて彼は『ここで』言葉を持ち、語り始める。錆びついた扉が開くように物語を押し広げてゆく。      
  彼女はまず、鉛筆を持って1ページ目の「男」と書かれた文字を2本線で消した。代わりに「マフィア」と書いた。
ーただのサラリーマンじゃダメだったんだ。もっと、もっと自由に、あの人がフルスロットルで動けるキャラクターだ。それから、偶然、修道院に入ったんじゃない。彼は、悪魔と契約したんだ。自分の願いを叶えて貰う代わり、生贄の魂、清らかな魂が必要なんだ。狙いをシスターに定めての行動。彼は、神に仇なすアウトローで、そして純朴で狡猾で悲しいんだ。
  目の前で曳馬は活き活きと動いた。それに応じて、『シスター』も  敬虔な聖女から復讐に燃える悪女まで、コミカルに変現していく。一貫性がないことだけが一貫している上島の役は、技術がない役者が演じるには不適だ。そこに捕らわれて、『男』の行動を抑える方へと舵取りしていた。それを止めて頭の中で曳馬が演じるに任せると、『マフィア』と『シスター』のぶつかり合いあいはヒートアップした。勢いづくやり取りの果てに、マフィアは目の前のこのシスターこそ、自分の娘ではないかと思い始める。しかし、シスターと言いつつ女性である確証もない。『シスター』は恋人をマフィアに殺された青年の変装であることも臭わせてくる。次第に男は、悪魔と取り引きしてしまったことを後悔し始める。もう遅い。ささやかな願いを弄ばれたあげく、男は神に祈る。今まで誰も信じず、他人の願いを容易く蹂躙してきた男は悔恨の中で、最期に笑うのだ。
    宇希はキーボードを叩く手を止めて、長い息を吐いた。 フルマラソンを全力疾走したかのようだ。 仰向けに寝転がると、扇風機の風は体の上空を吹きすぎていった。夢中で書いていた。
ー舞台が見えてたから。
 舞台では、と宇希は思った。役者は演技をするけど、演技っていうのは嘘をつくことでも隠すことでもなくて、晒すことだ。自分自身を観客に、偽りなく供することだ。それは、作家も同じなんだ。あの人もあたしも、舞台の上では何も隠せない。

  嵐の先ぶれにひと塊りの風が、狭い建物と建物の間を音をあげて吹き抜けた。宇希の住む軽鉄骨のアパートは痙攣のように一瞬震えた。
  「辻ちゃん、煙草すっていい?」
宇希の部屋で、クッションを枕に寝転がっていた曳馬が聞いた。傍にはプリントアウトしたばかりの真新しい台本が、綴じられもせず置かれている。
「ベランダでなら」
宇希はキーボードを叩く手を休めず、簡潔に言った。
「えーでも、風強くなってるけぇ、外」
「じゃあ、やめて」
「台所は?換気扇つけるからさ」
「ダメです」
「テレビつけていい?」「ダメ」
「台風情報見たいよう」「気が散る」
曳馬は面倒臭げにクッションを顎の下に挟んだまま、腹這いで本棚の下まで移動した。寝転がったまま本棚に手を伸ばし、適当に手に触れた一冊を引き抜いたつもりが、数冊が滑り落ち顔と頭部を直撃した。
「うわぁ、助けてー!本がー本がー俺を襲うー」
「台本書いとるんやけど、曳馬さん。邪魔しにきとるんですか」
「応援にきまっとるけ」「帰ってくださいよ」
「あー、雨降ってきたよ、辻ちゃん」
「帰れるうちに、帰ってください。台風、東海地方直撃の予報ですよ」
宇希が振り返ると、頭と顔に降ってきた本を乗せたままの曳馬がいた。ため息が出る。休日、まとまった時間の取れる貴重な執筆時間にふらりと曳馬は現れ、できた台本に目を通した後も何をするでもなく部屋にとどまっている。そうするうちに、南方の海の熱をさらった風が、暗雲を連れて押し寄せてきていた。
「帰っても、飯ないし」曳馬は起き上がり、落ちた本を手にしてパラパラめくった。
「うちだって、何もないですよ。買い物行く暇ないですから。冷蔵庫空っぽやし、なんか食べたいなら素麺湯がいてください、勝手に。でも麺つゆないわ、…醤油ならありますが」「え、辻ちゃんいつも何食べてるの?」「小麦粉。」「小麦粉?」「水で溶いて焼いたやつ」
「うまいの?」「砂糖入れれば甘い」
えらい素材重視やん、と言いながら曳馬は手にした本を元あった場所ではない所に立てかけた。それを宇希は直して、床に散った本を棚に戻した。
「意外と几帳面だよね」と曳馬。
「部屋狭いから、片づけとかないと寝る場所なくなるんです。それに出しっ放しだと、落ち着かないでしょ」「ふうん」
 ザーッと音を立てて雨が窓ガラスを叩いた。
「良くなった。」
曳馬が言った。額をガラスに触れるか触れないかの距離に近づけたまま、
「あいつな、航介、芝居ド下手くそなんやな。」と言った。
「うん、まあ」と宇希。
「読み合わせ稽古入ってビビったわ。素材はええのになあ、下手やわ」
宇希は彼がどんな顔で言っているのか窺ったが、ガラスと睨めっこした横顔は無表情だった。
「辻ちゃん、航介の下手な芝居をカバーするように、俺の役、書いとったやろ?」
「実力の差が大きすぎるから、ある程度は」
「でも、書き直して、それ、やめたやろ?」
意図したつもりはなかったが、今しがた改定した台本を読んだ彼がそう感じたのならそうなのだろう。黙っていると曳馬は続けた。
「良くなった、台本。」
「え、あ、ありがとうございます。」
ずっとダメ出しをされ続けていたのが初めて褒められた。もしかしたら、このあと大きな叱責がくるのではと宇希は身構えたが、
「好きなように書き。」と彼は言って振り向いた。
「航介がどんな芝居してきても、俺、拾えるし。あいつだって、今よりきっと上手くなるから、最高の舞台だけ想像して書けばいいよ。」
ーこれは、良い方にとっていいのかな?
宇希は口を結んだまま、小刻みにうなづいた。
そこにチャイムが鳴った。
ーこんな時に誰だろう?
宇希がドアののぞき穴を覗くと、レインコート姿の女性が立っていた。よく見れば朱江だ。
「あー、お待ちかねのメシが来たで!」
後ろからきた曳馬が、宇希の肩ごしにドアを開けた。湿って生暖かい外気が、雨音と共に玄関に満ちた。
「大丈夫やったか?腹ペコやで、作家先生は」
「うん、濡れた。はい、コレ」
そう言って朱江は、大きめのショップバッグをいくつも重ねた荷物を曳馬に渡し、レインコートを脱いだ。ジーンズは色が変わるほど濡れているし、前髪から水滴が落ちている。宇希はタオルと、着替えに自分のTシャツと短パンを出した。
  バッグの中には寸銅なべと白米の入ったタッパーが三つあった。鍋の中身は匂いでわかる。
「カレーだね」
宇希はおもむろに空腹を感じた。朱江のカレーは特別辛い。しかし、トマトとカリフラワーをベースに、飴色になるまで炒めた玉ねぎと本格的なスパイスで煮込んだ極旨のチキンカレーだ。
「朝から仕込んでたの。温め直すから、台所借りるね。」
着替え終わった朱江は素足の膝裏を見せて、コンロの前に立った。
「曳馬さん、家に飯がないってこういうことですか?」
「そう、辻ちゃんちにいれば、カレーが届くから食いっぱぐれない」
  宇希は眉根を寄せた。
「こんな嵐の中、朱江一人に届けさせないでくださいよ。」
「だってこんなに時間かかると思わないじゃん、俺、昼飯のつもりでいたし。」
「あのでかい鍋持って、地下鉄乗り継いで来てるんですよ。重いでしょう。」
言いたいことはたくさんあったが、曳馬には通じそうもない。曳馬への非難より、朱江がこの部屋まで来てくれたことの方が重大だ。
  荒ぶる圧倒的な力の内部を、泳ぎ切ってここにたどり着いてくれた彼女。二人を満たすために届けてくれたカレーライス。ドアを開けて、迎え入れて、ひとつ屋根の下で守りあうのだ。朱江のする一つ一つのことが、何ひとつ見逃したり取りこぼしたりしたくないほど特別だった。とりわけこの夕刻は。
ー忘れない。
と宇希は思った。
 そしてこの日のことをおそらく生涯、忘れることはなかった。『嵐に三人閉じ込められていた』。それは幸福なメタファー。やがて来る後悔と喪失感に苛まれる未来で、この日の光景だけは彼女を温め癒した。暫し風は逆巻き、雨音は三人の話し声をかき消すほど激しくなった。カーテンを閉め、灯りをともし折りたたみ式のちゃぶ台を出して、温めたカレーとご飯を並べる。部屋にはカレーの匂いが満ちている。

続く


読んでくれてありがとうございます。