聖書の登場人物を学ぼう|サウル④
サムエル記上15章1-16節 サウル王、マレク人との勝利と不従順1
この章は、なぜサウルが王としての資格を奪われ、部下のダビデに譲らなければならなくなったかを説明している章です。もはやサウルの中にむしばみはじめていた神さまへの不従順は、明らかにされます。
1.万軍の主の命令
遊牧の民アマレク人は、ヤコブの兄エサウの子孫でした(創36:12)。この民は神さまを恐れることをせず、出エジプトの際、疲れて弱っていたイスラエルの民を背後から襲い、落後者を切り倒すという蛮行を働きました(出17:8‐16、申25:17‐19)。
その事件から、すでに2百年ほど経過していましたが、神さまは忘れてはいません。
万軍の主である神さまは、その裁きとしての《滅ぼしつくせ》とサウルに命じられました。新改訳2017では、《そのすべてのものを聖絶しなさい》と書いています。つまり、神さまへのささげ物として、容赦なく滅ぼし尽す命令を与えられたのです。
これは、イスラエルの民が、カナンの地に侵入する前夜に、その地に住む7つの民に対して、神さまが命じられたものと同じ内容でした(申7:1‐6)。
2.サウル不従順の罪
サウルは、ジフの近くのテライムに(ヨシ15:24「テレム」)大軍勢を招集し、アマレクの町に出陣しました。
戦いの前に彼は、モーセと姻戚関係にあり、出エジプトの際にはイスラエルに助けの手を伸べてくれたケニ人に忠告を与え、アマレク人から離れるよう指示しました(民10:29‐32、士1:16)。そして、激しい攻撃が始まり、サウルはアマレク人を討ち、エジプトの東にまで及びました。
ところが、ここにサウルの不従順が再び表れ、サウルはアマレク人の王アガグをゆるし、上質の家畜を惜しんで滅ぼし尽くさず、《ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。》 中途半端な服従は、不服従と同じです。
3.意気揚々なサウルと怒ったサムエル
《その時、主の言葉がサムエルに臨んだ、》とあるように、サムエルはサウルに会う前に、その不従順について神さまご自身から知らされました。
サウルの不従順さは、神さまに失望を与えました。《悔いることはない》(15:29)神さまが、11節で《わたしはサウルを王としたことを悔いる。》と、人間的な表現を用いられたほどでした。
サムエルも怒り、眠りにつくことも出来ず、一晩中、主(神さま)に叫びました。その中で彼は、何とかサウルが王位にとどまる道はないものかと主にとりなしたことも考えられます。しかし、それはもう不可能です。
そのようなサムエルの悲しみと怒りを与り知らないサウルは、ユダの町カルメルに戦勝記念碑を立てて自分自身をたたえ、会いに来たサムエルに軽々しく応対し、《わたしは主の言葉を実行しました」。》と自慢げで意気揚々です。
そこでサムエルは、《「それならば、わたしの耳にはいる、この羊の声と、わたしの聞く牛の声は、いったい、なんですか」。》とサウルに質すと、サウルは自ら2つの過ちを証言します。
1つは責任を民に転嫁し、そのうえ、これら最も良い家畜を残したのは、主(神さま)へ、ささげるためだと言い逃れようとしました。これはアダムが罪を犯したときに、アダムとエバが犯した過ちと同じ過ちです。責任転換するところには、神さまとの真の関わりは持てません。
そしてもう1つ、《最も良いものを残した》理由が、《あなたの神、主にささげるため》であり、《そのほかは、われわれが滅ぼし尽しました》言い、かえって自分のとった行動は、従順であるかのように印象付け、まるでサムエルの利益のためにしてあげたかのような言い方は、不安をもっているのか「自分は正しい」という考えを補っているように聞こえます。
つまりサウルは、自分の頭の中で勝手に決断し行なったことを正当化しているのでしょう。
16節の《おやめなさい。》口実を並べようとするサウルを制し、サムエルは、昨夜聞いたばかりの厳粛な神さまのお言葉を彼に伝える提案をしました。するとサウルは《言ってください》と言いました。
サウルは、礼拝の心を持っていたのでしょうか。
彼が礼拝の心を持っていたとしたら、むしろ、主(神さま)が言われたとおりに、最も良いものを真っ先に打ち滅ぼしたことでしょう。主を礼拝するということは、自分にとってもっとも高価なもの、大切なもの、最も良いものをおささげすることです。
以前学びました“アブラハム”は、そのひとり子イサクをささげようとしました。
兄に殺されたアベルは、子羊の最良のものを神さまにささげました。私たちが、自分のもっとも大切なものを神さまに明け渡すときに、そのときに初めて、神さまを礼拝する姿勢に入ります。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?