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ヨシュアを学ぼう②〜約束の地の攻略〜

 本日は、いよいよ約束の地の攻略です。具体的な戦いの場面となります。
 <ヨシュア記6-12章より> (▶︎ヨシュア以前の人物伝はHPにて。

1.エリコの占領

 先ず、はじめはエリコの町です。

6:1 さてエリコは、イスラエルの人々のゆえに、かたく閉ざして、出入りするものがなかった。

 エリコは、イスラエルが攻めてくることを想定して万全の防御態勢を整えていました。エリコの町の周囲は、高く強固な城壁で隙間なく覆われて守られていました。

 しかし神さまは、ヨシュアへ次のように言われます。

6:2 主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。

 神さまは、エリコをすでにヨシュアに与えていると言われました。人の目には、堅固な城壁で囲まれて、攻め入る隙が全く見えない状況でも、そこはすでに与えられているので、占領するようにということでした。

 そして神さまから示された戦いの方法は、実に奇妙に感じる方法でした。

6:3 あなたがた、いくさびとはみな、町を巡って、町の周囲を一度回らなければならない。六日の間そのようにしなければならない。
6:4 七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。
6:5 そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない。そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる」。

 示された戦い方の中で、「七」という数字が特徴的です。町の周囲を七回まわる、七日目には七度回る、七人の祭司、訳されていませんが原文を見るとラッパ(動物の角でつくった角笛)も七つです。

 この「七」は、イスラエルの民に安息日を意識させるものであったと考えられます。

 神さまは安息日を聖とされ,働かないで神さまを礼拝する日とされました。それは創造において、神さまが6日間働かれ、7日目に休まれたからでした。

旧約聖書 出エジプト記
20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

 そして人には、7日目には日常の働きを休んで、神さまのための特別な日として神さまのことに思いを向けて「聖なる日としなさい」と言われているのです。彼らはモーセの時代からこれを守ってきました。

 先週見た中でも神さまは、ヨシュアへ、そして、イスラエルの民へ、約束の地を獲得する戦いは「神さまの戦い」であり、イスラエルの民の神さまへの「信仰の戦い」であることを繰り返し示していました。

 そして、このはじめての戦いで、ヨシュアとイスラエルの民にそれを実行させ植え付けようとしているのです。

 6日間ただ神さまの言葉に従い、そして7日目には、安息日に神さまを礼拝する如くに、神さまに心を向けよ、そうしたら、神さまが戦ってくださる。ということだったのです。

6:16 七度目に、祭司たちがラッパを吹いた時、ヨシュアは民に言った、「呼ばわりなさい。主はこの町をあなたがたに賜わった。
6:20 そこで民は呼ばわり、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。


2.アイでの失敗


 次は、アイとのたたかいです。

 しかし、エリコの戦いで、イスラエルの民のアカンという人が、手に入れた戦利品を盗んで隠し持ちました。それは神さまへ捧げるべきものでした。そのことで神さまの怒りが燃え上がります。

 さらに、アイでの偵察を終えた彼らは、敵を甘く見て、民のうちのわずか三千人で、アイを攻めます。強固な城壁に囲まれたエリコを占領したことの思い上がりが、彼らにありました。

 神さまが戦い勝利させてくださったこと、信仰の戦いであることをすっかり忘れていました。
 ヨシュアもここでは、どのようにアイと戦えばよいのか?
 三千人で本当に大丈夫かと神さまに尋ねることはしていません。

7:4 そこで民のうち、おおよそ三千人がそこに上ったが、ついにアイの人々の前から逃げ出した。
7:5 アイの人々は彼らのうち、おおよそ三十六人を殺し、更に彼らを門の前からシバリムまで追って、下り坂で彼らを殺したので、民の心は消えて水のようになった。

 このあと神さまの前に悔い改めました(謝って赦しを乞いました)。その後、神さまは彼らを励まします。

8:1 主はヨシュアに言われた、「恐れてはならない、おののいてはならない。いくさびとを皆、率い、立って、アイに攻め上りなさい。わたしはアイの王とその民、その町、その地をあなたの手に授ける。
8:2 あなたは、さきにエリコとその王にしたとおり、アイとその王とにしなければならない。ただし、ぶんどり物と家畜とは戦利品としてあなたがたのものとすることができるであろう。あなたはまず、町のうしろに伏兵を置きなさい」。
8:3 ヨシュアは立って、すべてのいくさびとと共に、アイに攻め上ろうとして、まず大勇士三万人を選び、それを夜のうちにつかわした。

 彼らは今度、先の三千人ではなく、《いくさびとを皆》三万人で戦い、戦いも神さまに支持された通りにして、アイを完全に攻略します。

 エリコとアイの2つの戦いは対照的で、約束の地での戦いをよく示しています。

 エリコの時のように神さまを信頼し、従っていけば、神さまは誠実に応えて下さり、勝利をくださいました。一方アイの時のように、神さまに従わず、神さまの存在を忘れ、自分の経験、自分の知恵、また自分の力に頼って、自分の思いで支配される時には、勝利も神さまもまた、遠ざかるということです。

 イエス様を信じて罪赦された信仰者も同じでしょう。
 罪赦されたと言っても、罪にあふれるこの世を歩む足元に罪が絡みついてきます。常に戦いがあります。
 神さまであるイエス様に頼らずに自分に頼り、自分の思いで歩む時、私たちは罪に近づき、また罪を犯し、イエスさまから遠ざかってしまいます。

 彼らは、すべてのいくさ人で戦ったように、私たちも中途半端な信仰ではなく全力の信仰で歩まねばなりません。それは、自分だけの全力という意味ではなく、イエス様へ全ての力で信頼し、頼るという歩みです。

3.聖絶ということ

8:26 ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。

 神さまは、エリコでもアイでも、町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼすように命じています。
 もっともアイの時は、ぶんどり物と家畜とはあなたがたのものとすることができるとしました。

 この聖書箇所で、神さまは愛の神さま、平和の神さまではなかったのか。と疑問をもつ方も多いです。そこまでする必要がなぜというかたも多くおられると思います。

 しかし、これは、約束の地の先住の民カナン人に対して、歴史の一定期間に限定されています。

 レビ記18章に書かれているのですが、カナン人は、肉親の親子、兄弟の間においても性的な不品行をおかしている人たちであり、また、

旧約聖書 申命記
12:31 あなたの神、主に対しては、そのようにしてはならない。彼らは主の憎まれるもろもろの忌むべき事を、その神々にむかって行い、むすこ、娘をさえ火に焼いて、神々にささげたからである。

 とあるとおり、彼ら、約束の地にいるカナン人たちは、子供をいけにえにするような民でした。

 神さまは、神の民イスラエルをこのような悪しき習慣から守るために、この時のカナン人に対して厳しく対応されているのです。

 ノアの時も、神さまに従わない人々を神さまはやむなく滅ぼされました。
 ノアが長い年月舟を造っている間に、神さまの前に悔い改めて立ち返る人は1人もいませんでした。

 エリコの時も、6日間の猶予がありました。アイでもその時はありました。
 エリコの町で神さまに立ち返った遊女ラハブは、イエス・キリストの家系に入れられるほどに祝福されています。

 神さまのお言葉どおりに約束の地を占領し、聖絶することによって、それが神さまのものとしてささげられ、その後、その地が神さまからの賜物として与えられるのです。

 ですから捧げる前に神さまのものを盗んだアカンは厳しく責められました。全力で神さまに従い、神さまのものを神さまのものとして献げることが聖絶であり、その上で、神さまを神さまとすることが礼拝だと教えられています。

 本日のところも1つの真理に全てつながっています。

新約聖書 マタイによる福音書
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

 これらのものとは、衣・食・住にかかわるすべてです。

 信仰者にとって神の国と神の義とを求めるとは、いただいた聖霊の助けで、み言葉とイエスさまに頼って神さまの示される道;歩むべき細い道を見出して、神さまのみ心に従っていくことです。まだ、信仰を持っていない方には、明日を心配せずに、このお方イエスさまに頼って任せる、委ねていくことです。


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