『恩の循環』を体感した話

ここ1ヶ月ほどでつくづく感じたこと。

最近、色んなコミュニティに参加させていただいてる。っていうのは、ただただオーディエンスとしての参加ではなく、手を動かして時間を割いて、ときにはお金を出して積極的に動いたりしている。

普段、自分は履物の卸を営んでいるもんだから、”コミュニティへの参加”は完全に仕事の合間にやっている感じ。そして、それは決して嫌々ではなく、自分が参加できて作り上げられていく過程を楽しんでいるからだ。

例えば今年になって、ひょんなことから奈良クラブ(JFLに位置するサッカーチーム)を応援している。

自分の存在は小さいので、ぼくに出来ることは[チケットを買うこと/スタジアムに足を運んで応援すること/グッズや飲食でお金を落とすこと/SNSで情報を拡散すること]など。

そこに全く(本当にまったく!)見返りは求めていない。それは当然で、日本代表を応援していて、その見返りを求めている人は殆どいないはず。
(*勝敗が付いて回るので、それに感情が揺さぶられるのは別。)

日本代表選手に「チケット買ったんだからおれらにも『ありがとう』って言えー!」という強要はお門違いで、そこに見返りを求めてはいけない。
(*勝敗が付いて回るので、チケット買ったんだから「勝て!」「いい試合しろよ!」はちょっとわかる。)

話は少し変わりますが一方、仕事ではごりごりに履物の新ブランド立ち上げに向けて進めています。デザイナーさんと手を組み、工場さんに声を掛けて回り、一方で自分の行動のいちいちをTwitterなどで発信。営業活動もしている。半年後のブランドデビューへ向けて、面白がってくださる方が少しでもいればとの想いで活動してます。

そんなことをしていた最中、あるとき奈良クラブのボランティアスタッフに参加してみました。
まる1日スタジアム内の設営から、会場周辺のブースづくり、そしてお客さんのアテンドとブースでの接客。試合後はその全ての後片付けまで。

これがとても楽しかったんですね。

そして、そこで起きた事がこのnoteで伝えたいことなんですけど。

設営を黙々としていたときに隣に居たお兄さんが「もしかして履物の人?」と声をかけてくださったんですね。
「ええー!?そうです!!」っとなって、なんでそのお兄さんがご存知だったかと言うと…
ぼくが奈良クラブの情報や観戦のことをツイートしてたら、そこからぼくのタイムラインを追ってくださり、履物ブランドをやろうとしている人っていう認識にまで至ったみたいでした。

「ああ、なんか奈良で履物をやる人」っていうのが、その人の頭の中に描かれていたんです。

ぼくは意図して、その動線を描いてなかったのでとてもびっくりしました。

会場では「七夕コーナー(お客さんが短冊に願いごとを書けるコーナー)」を任されたんですけど、少なくとも5人以上のお客さんに「履物の人ですよね?」「サンダルの人ですよね?」「あのミノサンすごいね!」って声をかけていただいて。

奈良クラブのサポーターやその周辺の人へ向けて、「奈良の履物ブランド応援してください!」と発信したことは、今の一度もなかった。だけれどもそうやってぼくが奈良クラブを応援していることの延長線上に、こうした会話が生まれたことが、とても興味深くて学びでした。

最終的にはあるオジサンが「ヘップサンダルが完成したら教えてよ。おれ買うからさ。」って。実物も写真も見てないのに、声をかけてくださる方が現れて。応援しに行ったはずが、ぼくが応援される側に回っていたんですね。

なぜこんな事が起きたのか?

ポイントは2つあると考えています。

1つ目は、奈良クラブスタッフや選手に「いつも応援ありがとうございます。今度サンダル買います。」と直接言われたわけではなく、ツイッターを見ていた普通のオジサンが「今度おれ買うからさ。」と言ってくださったこと。
(*もちろん、奈良クラブ運営の人たちもぼくにたくさん声をかけてくださったよ!)

西野亮廣さんが2017年のブログで語っています。
とても参考になるのでちょっと長いですが以下、引用です。

...我々は、一つ親切をすると、その親切をした相手から、すぐに対価(見返り)を求めてしまいました。
「人に親切をして、本当に戻ってくるのかよー」と疑っていたからです。

ただ、今はインターネットによって、「恩送り」が、"恩を送られた当人以外"も確認できるようになりました。

『鶴の恩返し』を例に出すと、さいあく、鶴が恩返しに来なくても、あの物語の前半が『爺の恩送り』という絵本になって、お爺さんが無償で鶴を助けたことが可視化され、お爺さんの善意を僕たちが知れば、その瞬間、お爺さんのフォロワーが複数人生まれます。

すると、今度、お爺さんが困ったことに遭遇した時に、お爺さんを助けてくれるのは、鶴だけでなく、"鶴を無償で助けたお爺さんの心意気に胸をうたれた複数のフォロワー"も、そこに加わります。

インターネットを経由した『恩送り』は、まさにその状態で、
これまで第三者に見られることがなかった『恩送り』が、インターネットにより可視化され、第三者に見られるようになったことにより、「人に送った恩が巡り巡って自分のところに更に戻ってきやすくなった」といえるのではないでしょうか?
(『恩送り』をした方が良い理由を理屈で説明します。2017.6.13)

もう1つのポイントは、自分のやりたいことをSNSに表明していて、それに応援の受け皿があったこと。

ぼくの場合だと「奈良の履物ブランドやります!」ということを一方で発信しまくっていた。そしてその商品を買うことで、ぼくの支援になることが至極当然わかるようになっていた。

もし、ぼくが夢を語らないサラリーマンだったら、このコミュニケーションは生まれていなかったわけです。

商品がお披露目されたときは、当然あのオジサンにぼくは連絡をするわけですが、そのいちいちをこうしてnoteに今書いています。

するとあのオジサンには、あのオジサンの予期せぬところでポイントが入っているわけです。

①見返りを求めずにGIVE, GIVE, GIVE...としまくっていたら、(ネットがあるので)それを第三者の人に可視化される。

②直接、相手からその見返りが返ってこなくても、それを見ていて胸を打たれた人は、そのギバーを応援(支援)したくなる。

③きちんとその気持ちを受け止めてあげられる「受け皿」を、自分がデザインしていれば、その人が助けてほしい時に「送った恩」が予期せぬ別の方向から返ってくる。

④その様子をみていた別の人が、またギバーを応援(支援したくなる)

⑤きちんと受け皿があれば、その人が困った時に…

この永続的に続くループが回り回っていくことを「恩の循環」ではないかなーと最近考えています。

なので、奈良クラブの応援にせよ、ミノサンを作らせて頂くことにせよ、ALLYOURS木村さんの試着会をお手伝いさせていただくことにせよ、全部見返りなんて求めていなくて、本当にたくさんの時間を割いているのだけれど、その場に学びがたくさあったりして、とても楽しい経験をさせていただいています。

ぼくの方はというと、履物を買ってくださった折には、その方への感謝も勿論忘れずに、「ぼくの取り分」は次の応援の資金にできるだけ回させていただこうと今から決めています。

続いてなかったnoteを書き出す気かっけが、現在ミノトゥクドライバーとして都内で活躍しているまるちゃんなんですけど。

気づきを与えてくれて本当に感謝です。
ありがとうございます。

これからもよろしくお願いします!

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