空白の夏

僕は両親のことが嫌いです。それは強がりではなく小さな頃から現在までずっとそうです。これは限界を迎えた僕が友達にも、昔好きだった人にも話をしていない空白の夏の話です。

幼少期の頃から宮城の山奥にある祖母の家に預けられることが多く、非常に田舎だったため、周りに民家も少なく熊出没注意の黄色い看板がそこら中にあるよう場所です。もちろん遊び相手はおらず一人で川で水切りをしたり、祖母の家で飼われていた猫と戯れたりしていました。たまに祖父が映画を借りてくることがありソファに座って一緒に観たりもしました。僕はとても穏やかな時間を過ごしていました。

その後祖父と祖母が別居がキッカケに預けられる事は無くなり、自然の中でのんびりと過ごす事が出来なくなりました。僕は祖母の家とは真逆の閉鎖的な自宅で息苦しい思いをするようになりました。

自分の家にいる時は、友達とカードゲームをしたり、部屋にこもり、意味のわからない本を読んだり、カートゥーンネットワークを観たりしていました。家族と出かけることもありましたが基本的には留守番を好み、一人で過ごす時間が多かったです。何故ここまで親と距離を置いてしまうのかというと、一番の原因は母親と完全に相性が合わなかったからです。何か因縁がある訳でもなく、とにかく母親の自分勝手で隙あらば嫌味を言う性格を受け入れる事が出来ませんでした。

一度食事中に怒鳴られた事があり、ご飯抜きだ!!と叫ばれたので渋々オカズだけ食べていたらビンタされた事があります。これだけは未だに腑に落ちないですね。

中学に入って映画や音楽、海外ドラマ、UMAや都市伝説などのオカルト、世界の猟奇殺人などに少しずつハマっていった僕に対し、母親は「今日親戚来るから自分の部屋の物押し入れに隠しといてね!」や部屋に貼っていたビョークのポスターをみて「気持ち悪い」と言い放ちました。

自分の趣味嗜好を理解してもらいたいとも思ってませんが、半ニヤケで見下すような言い方をされとても腹が立ちました。それからも二階の自分の部屋で映画をみようとしたらTVもDVDプレーヤも電源が入らず、下に降りてみるとワザとブレーカーを落とされていたりそのような事が続きました。

19歳の夏、全てが嫌になりアルバイトで貯めたお金を持って福島県猪苗代に行きました。小学生の頃に修学旅行で行ったことがあり楽しかった記憶があったのでそこに決めました。自然に囲まれた場所で幼少期の頃を思い出しながら、誰にも邪魔されずのんびりと過ごすのが目的です。ある程度のお金があったので山奥にひっそりと佇む綺麗なホテルで1ヶ月ほど生活をしていました。朝起きて、一人で森を探索し、夕方になると近くの川で水切りをしました。リバーランズスルーイットのような光景に終始ニヤニヤを抑えきれませんでした。疲れると足首を川に入れてヨラテンゴを聴きながらボーッとしていました。夜にはお風呂に入り、知らない家族連れと卓球をして、ホテルのロビー付近にあるソファーでソフトクリームを食べながらネット番組「隔週わらふぢなるお」を観てぐっすり寝るのがルーティーンになりました。わらふぢなるおさんがキングオブコント準決勝でやるネタを視聴者からアンケートを取る回が記憶残っています。

しかし、何もしないとお金が減る一方なので面倒ですがそのホテルの近くにあるアトラクションのバイトを短期でしました。基本的に暇でした。上司達がとてもいい人でボロボロのトラックの荷台に僕を乗せて森の中を走ってくれました。山奥のコテージのような場所で、その人達は僕が好きな音楽の話や映画の話をすると楽しそうに聞いてくれました。僕にはそれがとても嬉しく、この時間がずっと続いたらいいのになぁと思いました。 

夏の終わりが迫り、帰る前日に宮城に帰ることを告げると猪苗代で知り合った人達が「ずっと居たらいいのに、、」と言ってくれました。

帰り道、色々な事を思い出しました。

東京に行き、漫才をやりたいと思ってる事を打ち明けたら応援するよと言ってくれた事、森の中で巨大なミヤマクワガタを見つけた事、上司の子供が懐いてくれたこと。森の中で軽く遭難し、エンヤを聴いて精神を落ち着けた事。どれも素晴らしい思い出です。最終日に上司に言われた「君なら絶対大丈夫。俺わかるもん」この言葉は未だに忘れられません。根拠など無くていいのです。根拠が無くても僕はその言葉に救われました。言葉に包まれた感覚です。

耐えがたい空間から逃げ出した僕の空白の1ヶ月。

また何かに傷つけられた時はあの場所に戻ろうと思う。






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