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令和の無職。どんな無職だったの?(part2)

令和元年にやってたこと

チッスチッスどーもー。part1ではある意味で「」として、イヤーな部分だけをネガティブに書きました!
今回は逆に、こんな自分でも少しだけ頑張れたことや、助けられたことをエピソードと交えながら書いていこうと思います。よろしくです。

↓ part1はこちら ↓

GeekSaloon発足&Youtube投稿

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2018年の6月にプログラミングスクールのGeekSalonに入校しました。「人生の転換点」と言っても過言ではない出会いでした。入校の半年後に「卒業した後もGeekに残れる場所」として、このGeekSaloonの発足が成りました。そしてこれが、無職の私の最後の支えになっていました。(パーティでやった全力の受け狙いでやった女装も、今では趣味と言えるほど恒例になりました)
素晴らしい友人と、Geekの人たちのたくさんの支えによって細く長く続けることができました。約一年間通して、お花見🌸やBBQと言った実際に青空の下交流するイベントや、卒業生のプロダクトをゲーム実況したり、GSDCの受賞経験者の卒業生を呼んで、現役受講生と一緒にプレゼン大会を開催したりしていました。
足りない部分もたくさんありましたが、本当に色んなことに挑戦しました。

プロダクト”EMOSEARCH!!”リリース

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エキスパートはGeekで一番熱くなれた時間でした。メンターのプロエンジニアの方にマンツーマンで教えてもらうことも多く、みんなとの技術力やITリテラシーのギャップを埋めるのが大変でした。
GeekSalonのWebExpartコースにてTeam令和を結成しました。私は拙くもフロントエンドやルーター設計を担当させていただき、無職なのにチームリーダーをやらせていただきました。
チームメンバーは北海道から飛び出してきたキラキラのJDと、Geekの諸コースをすっ飛ばして飛び級でエキスパートに殴り込んできた男でした。個性も技術も得意分野も考え方も、何もかもバラバラでしたが、そこが功を奏する結果となりました。最終発表では日本IBMさんから企業賞をいただきました。
本当の意味で、私がプログラミングの楽しさに気づけたのは彼らのおかげです。1人でやっている時や、メンターさんに負んぶに抱っこされている時よりも、確実に「ここだけは自分が作り上げるんだ、他の2人のクオリティについて行くんだ」という燃えるような気持ちで取り組みました。

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プレゼン大会&GeekSalon19期生DemoDay

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GeekSalon代表のコータさんの協力を得て、「プレゼンテーション」に対する意識を高める「プレゼン大会」を開催しました。Saloonの受賞経験メンバーの”なー氏”監修の元、暗黒の夏で楽しく運営と企画ができた貴重な時間です。当日は以前”プレゼン道場”を開いていた元メンターの”あっちゃん”さんを土壇場で臨時講師として参加してもらうなど、めちゃくちゃ豪華なメンバーで運営を行うことができました。
8世代ものGeekの卒業生が集まって、こう言った勉強会を行えたのは初めてだったので、有意義な時間となりました。現役の受講生もGSDCでは大いに活躍してくれたみたいです!

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そんなプレゼン大会の評価を一定に得られたのか、GeekSaloonで19期生のDemoDayの企画運営も1から任せてもらえることになりました。正直この話は、自分でも受けた後に後悔するくらいヒィーヒィー言いながら、プレゼン大会の運営メンバーで組み立てましたね。細かいミスに目をつむれば、突貫工事とはいえ、今までとは違う意義を持ったプログラムができたという手応えも確かにありました。
それとSaloonのTシャツを作りました。一生宝物にします。Saloonのメンバーと一番濃い話をしたのもここら辺です。ここら辺から少しずつ自分の所属するコミュニティや、将来の進路について考え始めるようになります。

四国で思い出す、苦いLemonとOliveの匂い

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「米津の美術館に行きたい」

そう母から言われたのは10月でした。母と2人で弾丸四国の旅でありました。母との二人旅は高校一年の春休みに行ったセンバツ甲子園以来です。
引きこもりNEETになっていたバカ息子を少しでも外に引っ張り出したかったのでしょう。私は説教をされると思っていたのですが、母は本当に何も言いませんでした。ただ、この2人で過ごした時間で感じたものは多かったです。
徳島出身の米津玄師の曲を親子で聞きながら、香川はオリーブの小豆島まで電車とフェリーを乗り継ぐ、ローカルな旅でした。高松は実は今年の二月に卒業旅行で大学のゼミのメンバーと行っていました。
その時は琴平が目的地で「次きたらフェリーで島巡りもいいね」なんて話していたのを思い出しました。まさかこんなに早く香川に戻ってくるとは思ってもいなかったですが。あの時、卒業を前に能天気に過ごしていた自分が本当に遠くに感じていました。

おいNEET、お前今かなりやばいぞ」拝啓、2月の君へ

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いざベトナムはダナンへ、ジコチューで行こう!

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正真正銘人生の転換点になります。意識と価値観が変わった旅でした。Geekで知り合った”せいちゃん”に導かれ、Saloonの弟子2人(1人欠席…)と共にベトナムのダナンに赴きました。色々面白いことはありましたが、そちらはラジオの方で話したのでここでは敢えてしません笑
9割は観光でしたが、祖国以外のアジア初体験で、全てが日本と違うベトナムでは発見の連続でした。残りの1割はベトナムでとある事業を行う、せいちゃんとそのビジネスパートナー”松岡氏”という2人の同世代の男女の働きぶりを見ました。
二つ年上のせいちゃんから聞く話は全てパワーに溢れ、一つ年下の女の子の松岡氏からは聞く話は夢と愛に満ち溢れていました。同世代の彼らの活躍が、今まで「なんとなく」行きていた私に火をつけてくれました。遠い異国で自分たちの目標に向かって進む2人をみて、どんな身近なところからでもいいから、社会のために一生懸命頑張ろうと思えました。言葉にすると少しクサイですが、それだけまっすぐに未来を見据えられました。
そして帰国後すぐに私はESや履歴書、自己分析をモリモリやって、来年の春までには仕事を見つけようとした時でした。一件の旧友からのLINE通知が飛んできました。
まさしく空谷の跫音、でありました。

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肩を並べるの友

中学からの腐れ縁の韓国の友がありました。成績や運動でいつも張り合い、私は野球で、彼はサッカーで、放課後同じグラウンドにて汗を流していました。当時好きだった女の子を白状して、お互いからかいあったりもしました。そんないわゆる「昔からの友だち」は、無職でベトナムに行く私を見かねて声をかけてくれたのです。

「俺が今お世話になってる会社に来る?」

Webサービスの受託案件を受け持つ会社のアルバイトの誘いでした。齧流くらいにはプログラミングをしていたのでその話を受けてみることにしました。
早速、正社員の方につないでもらいました。履歴書を持ってスーツに袖を通して、表参道の会社に向かいました。色々面接をしてもらい、気づいたらその場で次のシフトを入れてました。気づいたら採用だったみたいです。
そんなこんなで、今ではその会社でエンジニアの見習いとしてプロの方に付いて勉強しています。親友が持ってきてくれた話を、今では全力で頑張れています。本当にタイミングも内容も完璧で、人の縁に不思議な力を感じました。ありがとう。

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これからの無職

飛んだ自分語りになってしまいました。でもnoteってそういうもんだしいいよね。
私は今、プログラミングのバイトをしながら、正社員を目指しています。スキルは青天井ですが、自分が行けるところまでなんとか頑張って行く所存です。のらりくらりと行く私ですが、本当に周りの人たちの感謝と笑顔に支えられた2019年でした。
暗黒歴となった令和元年でしたが、これからの人生で必ず糧となる一年でした。目を覆いたくなるような時間の中で、確かに感じれた「大切なもの」がありました。家族とか、友だちとか、仕事とか、そんなありきたりでキレイゴトな「身近なモノ」でした。
自分の手の届く範囲の人たちを背伸びせずにマイペースで一生懸命に大切にして生きること。毎朝目覚ましをかけて出社して、一杯だけお酒を飲んだ後に好きなアイドルのブログを読んで寝る。そんな毎日を週末は家族や友達に話す。
とっても美しい時間です。毎日を、一瞬を、大切に大切な人と過ごすこと。これが令和2年よりの私の人生計画でございます。

拙い文章でしたが、最後まで読んでくれてありがとうございましたm(*_ _)m

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