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哲学お悩み相談室 「映画の観方がわからない」 by 持地秀紀

Q. 映画の観方がわかりません
映画を観るとその映画について語りたい気持ちになりますが、なかなかうまく解釈して語ることができません。パンフレットの解説や雑誌の評論などを読むと、こういうふうに観ればよかったのかと納得する反面、自分で考える前に答えを見てしまったようで少し悔しい気持ちになります。映画を観たあとにもっとうまく映画について話せたらきっと人生楽しいと思うのですが、どうしたらいいでしょうか?
A. 
映画について語るのって意外と難しいですよね。何かの賞を受賞した映画だからさぞ感動的なのだろうと期待して観ても、ぜんぜん感動できなくて何がいいのかさっぱりわからない、そういった経験は私にもたくさんあります。ところで、現在私は哲学を研究していますが、そもそも哲学科を志望した理由は、「映画を理解するには哲学を学ばねば」という変な考えが自分のなかにあったからでした。なのでここでは少し哲学的な観点から、つまり「映画とは何か」、そして「映画を解釈するとはどういうことか」を考えてみながら、映画を解釈するポイントについて簡単にお話したいと思います。

映画を理解する難しさ

映画を理解するのが難しいのは何故なのでしょうか?少なくとも義務教育では、国語の授業で文章の読み方を学ぶ機会はあっても、映画の観方について学ぶ機会はほとんどありません。つまり、言葉で表現されたものを読んで理解する訓練は受けていても、映像(イメージ)で表現されたものを観て理解する訓練はほとんど受けてこなかったということです。だから映画を理解するのが難しいのは、ある意味では当然のことだと言えます。

そして多くの人は言語作品と同じ仕方で映像作品を理解しようとしてしまうので、映画を解釈するのがより困難になっているのだと思います。というのも、映画には言語的側面と映像的側面とがあるのですが、この映像的側面を多くの人は見落としてしまっているからです。

映画を解釈するということ

映画を解釈するということは、言ってみれば、映画を自分の中で作り直すことに似ています。それはただ映画を眺めるだけの受動的な態度とは異なり、映画を自分自身の言葉に置き換えて、その言葉でもって映画を再構築してみるという能動的な作業です。そして解釈の難しさというのは、映画をスムースに言葉へと翻訳できないところに生じてくるものと思われます。

ところで、映画にも容易に言葉に翻訳できる側面があります。多くの人は、観た映画を誰かに説明しようとするとき、まずストーリーの説明から入るのではないでしょうか。これは、ストーリーが最も言葉に置き換え易い、映画の言語的側面だからだと言えます。しかし、たとえばその映画に原作となる書物が存在する場合、映画をストーリーに還元することは、はたして本当にその映画を解釈したことになるのでしょうか。もちろん、原作のない映画というのもありますが、そうだとしても映画監督の役目はストーリーを作ったらそれで終わりというわけではないはずです。ストーリーがあっても、それを映像にしないかぎり、映画は成立しません。ということは、映画を解釈しようとしても、その言語的側面だけに基づいて映画を再構築しようとしたのでは、片手落ちになってしまうということです。映画を解釈するということがそれを自分で作り直すということであるならば、映画の言語的側面だけでなく、その映像的側面も含めて自分の言葉に置き換えて、再構築してみるように努力しなければなりません。

映像が表現するもの

文学とは異なる映画に固有の芸術的特性は、言語によってではなく、映像=イメージによって何かを表現することができるという点にあります。そして実際、映画では多くの場合、それが本当に表現したいものは、言語的にではなく映像的に示唆されます。

たとえば、恋愛映画の終盤で、ある人物がその恋人に対して「愛してる」と告げるシーンがあるとします。この言葉を信じてそのシーンを解釈しようとすれば、そこで描かれていたのは愛し合う二人の恋人たちだったと言えます。しかし、実際のシーンを観てみると、そこではただ「愛してる」という台詞が発せられただけではないことに気がつきます。たとえば、その言葉を発した人物の表情が不安に満ちていたとしたらどうでしょう。あるいは、二人の片方にだけ照明が当てられていて、同じ画面上で光と影の対立が示されていたとしたらどうでしょう。さらには二人の顔が交互に映し出されるとき、向かい合っているはずの二人の視線が一致しないようにショットが編集されていたとしたらどうでしょう。そうなると、そこで描かれていたのは、もはや単純なハッピーエンドではないということに気がつくのではないでしょうか。

このように、映画では、役者の動作や表情・フレーム構図・カメラワーク・照明・音響・編集方法といった諸要素から構成される映像それ自体が、ひとつの表現手段として重要な意味を帯びてきます。そして映画では、まさに映像を媒体とすることによって、「単純な言葉では表現できない何か」、ある種の「リアリティー」というものが表現されるわけです。なので映画を解釈しようとする際には、映画の映像的側面に注目し、それが表現しようとしていた「リアリティー」がどのようなものだったのかを、改めて自分自身の言葉で再表現してみるということが重要なポイントになります。それは例えるなら、昨日食べた料理をその名前で説明するのではなく、その味で説明してみることに似ています。単純に言葉では表現できない部分にこそ、味わい深い意味が隠されているのです。

映像を問う

もっとも、映像が表現する「リアリティー」はそもそも言葉で表現し難いものなので、それを改めて自分の言葉で表現し直すという作業は簡単ではありません。映画を語れるようになるには、それなりの訓練と慣れが必要になるでしょう。

しかし、映像に対して問いを立ててみることは誰にでも可能です。映画の中に少しでも違和感を覚えたシーンがあれば、「何故あのシーンはこのようにではなく、あのように撮られていたのか」と問うてみる。映像に対して問いをぶつけて、映画と対話していく。実際、映像に対して問いを立てるということは、映画をただ眺めるだけの受動的な態度ではなく、既にひとつの能動的な態度です。映画解釈の第一歩は、映像を問うことから始まるのです。

映画を観て、帰宅したら、湯船に浸かりながら映画との対話を再開してみましょう。そうすると案外、その映画が本当に表現しようとしていたものが何だったのかが少しづつ見えてきたりします。

持地 秀紀(Mochiji Hideki)
1989年生まれ。哲学研究者。専門はベルクソン哲学。


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