物語で問うということ 小説家・平野啓一郎さんインタビュー(前編) 哲学カルチャーマガジン『ニューQ』発売中!

ニューQの巻頭インタビューでは、哲学の専門家でなくとも「哲学している人」が実践している問いの立て方や、考え続けるための方法に迫る。今回お話を伺った平野啓一郎さんは、小説家として小説や評論、エッセイなど多岐に渡る作品を発表しており、そのどれもが、人が誰しも一度は突き当たるような深く根底的な「問い」を読者に投げかけている。平野さんにとって「問いを立てること」とは一体どのような営みなのか。アイデンティティ、他者、過去、愛など問いの核となる概念をめぐりなから、私たちが哲学するためのヒントを探りたい。

このインタビューが掲載されている『ニューQ Issue01 新しい問い号』は、全国の書店およびAmazonでお買い求めいただけます。

物語の中の「問い」

― 平野さんの小説には、どの作品にも明確に「問い」があるように思います。物語がひとつの大きな問いに貫かれていて、それが登場人物たちの素朴な問いや切実な問いの数々によって織り上げられていくような…。平野さんは普段から「問いを立てること」を意識されているのでしょうか?

平野 僕はだいたい疑ぐり深い人間なんですよね。だからみんながそうだって言ってることを聞くと、本当かな?って感じがするんです。それが自分がものを考えるきっかけになることが多くて。例えば、僕が小説を書き始めた90年代後半は、小説は終わったとか近代文学は終わったとか、「終わった」という話がすごく多かったんです、だけど、「本当かなぁ?」という感じがして。言っている人たちの論拠もあやふやだし、話している内容が二次テキスト的というか、「バルザックについて論じている誰か」について話しているのですけど、「本当にバルザックを読んだのかな?」という気もする。そんなとき、自分なりに考えたいなって思うんです。

子供の頃、「いいな」とか「これが正しいだろうな」と思うことのほとんどを、まわりの人に賛同してもらえなかったんです。教室で何かを決めるときとか、みんなが賛同する前提で話していたのに誰も賛同してくれないことがよく起こって(笑)。そういう経験から、「自分の意見は人と違う」ということが前提にあって、自分が考えていることはすごく特殊なような気がしていました。けれども10代のときに文学が好きになって、同じようなことを考えている人の存在に気づきました。そこから、もうちょっとこういうことも考えられるんじゃないかと思考することが自然に身につきました。

なので、もともとはみんながあまり僕の意見に賛同してくれないというのが最初ですね。そして気付けば僕もあんまり人の意見に賛同しなくなったという(笑)。でも、そこからなぜなのかと考えることが大事ですね。それが問いとなるのではないでしょうか。

― 今でも賛同されることには期待していないのですか?

平野 小説は10万部売れたらベストセラーですけれど、一億二、三千万人の日本の人口からすると0.1%くらいなんですよね。残りの99.9%って、普通の人の感覚だとほとんど100%じゃないですか。ほぼ100%の人たちと僕の意見はすごくずれている。でも0.1%くらいの人がかなり強く共感してくれると、その人たちの言動を通じて、間接的に自分の思考が伝わっていくことがあるかもしれないという希望は持ち得ます。教室では出会えなかったけれど、国際的な文学シンポジウムなんかに行くと大体そういう人ばかりなんです。0.1%のネットワークみたいなものが世界中にあると思うと、結構心強いですね。

「なぜだろう?」

― 日常的にも自分で問うということが普通のスタンスなのでしょうか?

平野 そうですね。人の話を聞いていると、時々、なんか違うんじゃないかな…って感じがするんです。素直になるほどと思うこともあるのですけれど、その考えだとちょっとうまくいかないんじゃないかという気がどうしてもする。自分が悩んでいたり困っていたりすることや、おかしいと感じていることの解決策をどこかで求めているけれども、いざ「それはこういうことだよ」なんて言われても、「そうかなぁ…?」と問いたくなるんですよね。

― そこから「本当にそうか?」と問い始める、と。

平野 そうですね。「なぜだろう?」っていう問い方は小説でもよく書きます。基本ですよね。いつも「なぜだろう?」って、そう思っています。

― 確かに、平野さんの小説に出てくる「なぜだろう?」という台詞はとても印象的です。

平野 割と実存的な問いというか、なぜこの状況に自分はいるのかみたいなことをよく考えるし、「なぜだろう?」と問うことで、状況が自分の前でほぐれるんですよね。これが僕のいろんなことに対する最初の受け止め方なんです。ちょっとクッションにもなるし、考えるためのアプローチが増えるというか…。

― 「なぜだろう?」というある種漠然とした問いかけは、物語の中でどのようにして具体的な問いになっていくのでしょうか?

平野 自分の生活の中にある問いが小説を導いてくれることもあるし、書いている途中で何が問題だったのかが分かってくることもあるんですよね。そういった問いを読者向けにキャッチーにまとめます。

哲学者や社会学者と小説家の違いに、一般論から始めなくていいというところがあるんです。やっぱり僕は小説家ですから、人間とか、今の若者とか、あるカテゴリーから議論を出発する必要がなくて、例外から話を立ち上げていい。読者が見知らぬ人物の話を読んでいって、どこかである種の普遍性に触れる瞬間があるかどうかが小説家の一つの賭けなんです。

最後までずっとどこかの他人の話だと、「そんな人がいたんだ」ということで終わってしまうし、特殊な人から始めたのにあまりに早く「でも実はこれが人間の姿なんだ」みたいなことを言い出すと、読者はそれに当てはまらない例外のことを気にしだしてすごく反発するんです。「こんな人が人間一般なはずがないじゃないか」と。だから、どこまで辛抱して具体的な話にとどめておいて、どこでそれを人間一般の話に開いていくかというタイミングをすごく考えます。

例えば、『ある男』もそうですが、アイデンティティの話を固有名詞を抜きにして抽象的に語ると、大体わけの分からない話になるんですよね。あんまり無理な概念化を最初からやろうとすると、どこかでおかしくなってしまう。だから具体例を通じて物事を考えるために、ひとりの人間がある時間と空間の中で生きていることをシミュレーションします。「もしこの人がここにいたらこんなことが起こるかもしれない」、「こういう人と出会ったらどうなるんだろうか」と実践的に考えていくので、急にこんなことを言うとちょっと頭でっかちなんじゃないかとか、現実にはこうなんじゃないかと物語を少しずつ練ることができます。結果、多くの人が実感しているのに近いことも概念化できていく気がします。

問う登場人物たち

― 特殊な人が具体的な状況で問うからこそ真実味があって、普遍性にも触れ得るというのは逆説的ですね。

平野 登場人物の設定が重要で、何も考えていない人物にしてしまうと重要な局面でシリアスなことを考えきれないんですよ。急に哲学的な問いを発したら変だから、もっと賢い登場人物をもう一人登場させないといけない(笑)。だから小説を書くときは、脳内オーディションをしています。今から書こうとしている物語をうまく生ききれて、重要な局面で深みのある問いを発しても変じゃないキャラクターかどうかを考えますね。

― 面白い(笑)

平野 すると、自力で深い考えに至ることができる知的な人が主人公になりがちではあります。

小説には様々なレイヤーがあって、物語全体のシンプルなレイヤーと、下に行けば行くほどだんだん複雑な問いがあるという作りが美しいと僕は思っています。根本のところは曰く言いがたい何かがあって、最終的にその大きな問いに降りて行くための階段のように問いがいろいろと設置されているイメージですね。

― それはどうやって設置していくのでしょうか?

平野 僕はデザインの影響をすごく受けました。『かたちだけの愛』という小説を書いた前後くらいに、グラフィックやプロダクトのデザインにすごく興味を持つようになって。

あとは、小説は絵画や音楽の基本的な構造を、比喩的に導入すると分かりやすくなるところがあります。全体の構造も、幾何学的とまでは言わないけれど、形のイメージが結構大事だし、場面ごとだと遠近感も重要です。遠くも近くも全部ばっちり描くと緊張感のないごちゃごちゃした画面になるので、ある場面においてはここを前景化させて、他の話をちょっと引っ込めて、でもそれが別の場面では、遠かったところにフォーカスがあたって…と、各場面に関しては、絵画的にイメージすると僕は整理がしやすいんです。最近は一章あたり大体原稿用紙で20枚前後にまとめようとしていて、その量だと、ちょうど絵画的な遠近感で画面をイメージしたときに読者が主題を掴みやすいんですよね。ここの場面は大事なところだ、みたいに。

ただ、もっと大きな流れの何百枚単位の小説の構造となると、文学はやはり時間芸術だから、音楽の方がヒントになるところがあります。僕は物語は音楽で言うとメロディーだと思っているんです。音楽でも、基本的にはメロディーと歌詞がある音楽が一番よく聴かれ、次にメロディーがあって歌詞のない音楽が聴かれ、メロディーのない音楽が一番聴かれない。そんなことはない、ラップが世界中をこれだけ席巻してるのに、というのは、その通りで、リズムも大事ですが、あえて言うと、ヒップホップもサビはメロディアスになってますし(笑)。ともかく、これは文学にも言えて、物語があるものはやっぱり多くの人が理解できるし、物語がない難解な話になると、多くの人はついていけない。僕は変わった音楽もたくさん聴きましたけれど、自分が歳をとってきたのもあって、結局は美しいメロディーの音楽がいいなというところに最近落ちついています(笑)。文学に関しても、美しい物語のラインがきれいに出ていて、最後にわっと盛り上がるという単純さを大事にしています。音楽のアンサンブルのようなイメージも必要で、何人くらいの登場人物をどういう立場で最初に集めてくるかということを考えるときは、さっきの話で言うとバンドのオーディションみたいなところがあります。

主人公はボーカリストです。結局どんな音楽でも、コンサートに行ったら基本的にオーディエンスはボーカルを通じてその世界観を体験するんですよね。その上で、私はギタリストが好きとかドラマーが好きというのはあるんですけれど、やっぱりフロントマンが弱いとバンドはダメなんです。ボーカルが下手だと、起伏のある豊かなメロディーを歌いこなせずに平板な物語になってしまう。なので最後に至るまでかなり深みのある、しかも紆余曲折のあるメロディーラインを巧みに歌いきれるような声や歌のうまさがキャラクターの設定にとって大事です。ただ、上手けりゃいいってわけでもなくて、やっぱり存在感ですよね。主人公は、その小説の世界観を象徴してないとダメでしょうね。

― 平野さんの中に問いや描きたいイメージがあって、オーディションを通り抜けた登場人物たちがその物語を生きていく感じでしょうか。キャラクターによって問いが深まっていったり、表現が変わっていったりすることはありますか?

平野 最初はキャラクターが固まらないんですよね。だから結構書き直しもします。だんだん書き進めていくと、この人はそんなことを言うはずがないとか、この人だったらこういうこと言うんじゃないだろうかとある種の自律性というか、他者性みたいなものが生まれてくるんですよね。あまり創作過程を神秘化したくはないですが、登場人物が思いもかけないことを会話の流れで言うことはありますね。そうなるとすごく楽です。

僕は、究極的には絶対に分からない何かがあるのが他者だと思うんです。僕たちは分かろうとするし、分かろうとする努力は必要だけれど、「気持ち分かりますよ」なんて言われるとちょっと腹が立つというか、なんで俺の気持ちが分かるんだよと思う(笑)。こう思っているに違いないとみなすことは、暴力的だと思うんですよね。それが典型的に表れるのは死者に対する言説です。靖国神社に祀られている人たちが、喜んで国のために死んだとか、いや、嫌だったはずだとか言われる。そういうことに対しては、究極的には「分からない」というのが他者性に対する最低限の敬意だと僕は思っているんです。分からないからといって無関心で良いというわけではなくて、分かろうとするけれど、最後は分からない。小説を書いているときは、登場人物のことがあるところまで分かってきたら、うまくいっているなと感じます。でも本当にうまくいっているなと実感するのは、最後にね、なんか分からなくなるんですよね、その人の心が。この人そう言ってはいるんだけれど、本当はどうなのかな?と自分のキャラクターに対して思うような瞬間が来るんです。そうなると、登場人物としてとてもうまくいっている気がします。

後編へつづく
(後編では、最新刊『ある男』の中で分からなくなった登場人物についてや、なぜ平野さんは過去を問うのか、分人主義と他者の問題などについてお話を伺いました。特別企画として、「愛にとって、過去とは何だろう?」というテーマで哲学対話も行いました。つづきもぜひご覧ください。)

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