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寺田俊郎先生と考える「哲学する」ってどういうこと?(後編) 哲学カルチャーマガジン『ニューQ』発売中!

前編に引き続き、寺田俊郎先生とニューQ編集部の対談をお届けします。後編では、"どうでもいい質問を哲学的な問いに変えるゲーム" の様子をお楽しみください。みなさんだったらどんな問いに変えますか?

このインタビューが掲載されている『ニューQ Issue01 新しい問い号』は、全国の書店およびAmazonでお買い求めいただけます。

どうでもいい質問を哲学的な問いに変えるゲーム

今井 実は今日、編集部みんなで「哲学的じゃない問い」を考えて、カードにして持ってきたんです。その名も哲学かるた(笑)。「哲学的じゃない問い」を「哲学的な問い」にする遊びです。

なぜはじめの問いは哲学的ではなかったのか、変えた後の問いはどうして哲学的な感じがするのか、変えるときにそこでは何が起きているのか…と探ってみようと思いまして。

寺田 面白いゲーム考えるねぇ。

今井 ゲームといってもめくるだけです。めくって…

寺田 哲学的じゃない問いを哲学的な問いに変えるわけね。

◇◇◇

いつ結婚するの?

寺田 あんまり哲学的じゃないね。

瀬尾 Google検索しても答えは出てこないですね。

寺田 「いつ結婚するの?」かあ。「いつ結婚すべきか」にして、「好きなときにすればいい」が答えになる、てのはどう?

今井 うーん。それだと哲学的というよりは、人生論的な問いだという気がします。「私はいつ結婚すべきなんだろう」という。

寺田 でもそれは自分の切実な問いなので、十分哲学的な問いになり得ますよね。

今井 ただ、哲学的な問いにするためにはもう一段階問いを深めないといけない気がするんです。まだ問いがみんなと共有できる一般的なものになっていないというか…。

寺田 そう、さっきも「一般性」という論点が出てきました。哲学的な問いにするにはもう一歩問いを深める必要がありそうですね。どうやったら深められそうですか?

今井 例えば、結婚するかどうかという話で言うと、30歳までに結婚した方がいいみたいな風潮が未だに根強くあったり、そうでなくても子供を産みたいかどうかを考えたりすると、「好きなときにすればいい」って本当か?と考えてしまうことがあるんです。早く結婚した方がいいよ、なんて助言は本当にナンセンスだと思いつつ、あとで後悔することがあったら…と思うと、急に未来の自分に対して責任を取れるのか不安になります。

寺田 なるほどね。そしたら「人は未来の自分に対してどこまで責任を取るべきなのか」とかどうでしょう。

瀬尾 それだと哲学っぽい感じがしますね。

寺田 「人は未来の自分に対してどこまで責任を取るべきなのか」という問いを考えるためには、「そもそも人は未来の自分に対して責任を取るべきなのか」ということから考えなければいけなくなりますね。そして、僕は未来の自分に対しては責任を取る必要はないと思うんです。

今井 どうしてですか?

寺田 責任は常に他の人に対して取るもので、自分が自分に対して責任を取るっていうのはおかしいからです。今自分が決めたことが他人に影響する場合には、将来の自分もその責任を取らなきゃいけないわけですけれど。

今井 なるほど。私は将来の自分を他者のように捉えていたということですね。

寺田 ただ、これは今の自分と将来の自分が同一の自分であるという考えが前提になっているので「それって本当?」っていう問いがすぐ返ってきますよね。「現在の自分と将来の自分は別人ではないか?」という。で、僕はそうは思わないという立場です。

今井 そうすると、「人は未来のために今を生きるべきなのか?」という問いの方が上手く考えを深められそうですね。

瀬尾 今の問いが哲学的だって思ったポイントがまだ言語化できないです…。

寺田 そこですよね(笑)

今井 もうちょっと続けたら何か見えるかもしれないですね。

無人島に一つだけ持っていくなら何にする?

瀬尾 これは面白いといえば面白いですよね。哲学的だとは思わないけれど。普通に答えるなら、助けてほしいので救難信号。でも…なんだ…これはどうやったら哲学的な問いに…(頭を抱える)。「無人島にひとりでも人がいたら、そこはもう無人島ではないのでは?」

今井 無人島を問う作戦(笑)

瀬尾 問題をずらしてみました。面白い問いにできるかな。あるいはなぜこれが哲学的な問いではないかを考えてみますか。

今井 この問いが哲学的な問いでない理由は、答えがどうでもいいからっていうのはどうでしょうか?

瀬尾 あぁ、それはありそうですね。答えが面白いかどうかが問われているトンチみたいな。

寺田 答えがどうでもいいからとも言えるけど、ただ好みを訊いているだけだからじゃないですか?

瀬尾 好みを訊くというのはあまり哲学的な問い方じゃないのかな。確かに「いつ結婚するの?」というのも、そもそも結婚したいのか結婚したくないのか、早婚がいいのか晩婚がいいのかなど全てその人の好みですよね。

寺田 ということはどういうこと?やっぱり共有できる真偽に関わらないと哲学的な問いにならないということなのかな。

今井 「無人島に一つだけ持っていくなら何にする?」の答えに不正解はないですもんね。逆に言えば正解もないという。

瀬尾 それを繰り返すことで話し続けることはできますけどね。

明日、天気いい?

寺田 天気予報見なよ、で済んでしまうね。

今井 そもそも天気予報を見るしかないので、答えを考える必要がないですよね。でも、これは「良い天気とは何か」に変えれば哲学的な問いになりそう。

瀬尾 そこまで直射日光が強くなく、風はほどほどで…。

今井 でも、どうしてそうだと「良い」んですか?

瀬尾 健康的だから!

今井 うーん。「良い天気とは何か?」っていう問いにしたら哲学的っぽくはなりますが、やっぱりこれも好みを訊く問いでしかなく、カラッとした天気で元気になる人もいれば、じとっとした天気の方がむしろ体調が優れる人もいて、人それぞれで別にいい。それに、もしここで「良い天気」の定義ができたところで、だから何?という気もして。「良い天気とは何か」という問いは、哲学的っぽいだけで、実は哲学的でも何でもないのではないでしょうか。

瀬尾 「明日天気良い?」という問いかけに対して、一度前提を疑って「そもそも良い天気とは何か」と問いを深めること自体は哲学的だと思うんです。前提を疑うっていうところは1哲学ポイント(笑)

寺田 そうですね。僕も、前提を問う問いに転換したところは哲学的だと言えると思う。

瀬尾 それで言うと、「いつ結婚するの?」も「そもそも結婚って何?」に変えることでかなり哲学的な問いになりますね。

寺田 「良い天気とは何か」っていう問いに対する答えは結局好みの話になるというのはその通りだと思う。でもさっき言っていたようにカラッと晴れた日の方が好きな人とジトジトした日の方が好きな人もいるときには、二人が「良い」とすることの共通点はまだ探れるじゃない?例えば、どちらも「快いと感じる天気が良い天気だ」っていうふうに、さらに共通点を求めて探求を続けることができる。

瀬尾 なるほど、好みを表明するだけだと哲学的ではないけれど、お互いの好みの共通点を探って一般化していこうとすると哲学っぽさが現れてくる。

今井 そしてソクラテスがいれば「快い天気は本当に良い天気か?」ってさらに訊いてくるわけですよね。

寺田 そう。問い続ければ決して好みの表明だけでは終わらなくて、それで言えば「無人島へ一つだけ持っていくなら何にする?」っていう問いが哲学的に展開していくこともあり得る。

瀬尾 よくコンサルタントの人がなぜそうしようと思うのか、なぜそれで売り上げがあがるのか、と「なぜ?」を繰り返し聞き続けるのですが、一般にそれはあまり哲学的だと思われていないような気がしています。その違いって何なのでしょうか。

今井 私がそういった「なぜ?」の繰り返しを哲学的だと思わないのは、もともと答えている人の中にぼんやりとあったものが、言語化されて明らかになるということしか行われていないからかもしれません。それはそれで良いことだとは思いますけれど。

瀬尾 でも、「質問を繰り返されて分かったけれど、うちの車の売り上げがあがらないのは生産ラインのここに、タイヤのゴムの供給が足りてなかったからだ」と新たに気付くこともあるんですよね。

今井 それも、「ゴムが足りていない」っていう状況がよく見えるようになったってだけの話ですよね。気づいてなかったことに気づいただけというか…。

瀬尾 気づいていなかったことに気づくのは哲学なのでは?

寺田 さっき前提を問う問いに哲学ポイントが入ったけど、「なぜ?」と問われ続けることで、事実だけでなく自分の考えの前提になっていたことに気づいて、その前提が実はあまり良くなかったとか、矛盾してたとか、さらに気づくことがありますよね。僕は、それは哲学にとって必要なプロセスだと思います。自分の意見の前提になっていた事柄に気がつく。あるいは自分の考えの原理原則みたいなものに気がつく。それは哲学の必要なプロセスだと思うんですね。でもそこで止まってしまうと、確かに哲学としては面白くないね。

今井 プロセスだってことで思いついたのですが、「なぜ?」に対して答えられなくなったところから哲学が始まると言えるんじゃないでしょうか?「なぜ?」に答えられるということは、自分が持っている考えを、理由として使える「確かなもの」だと思っているということです。どうしてそうなんですか?と問われ続けて、「この前提は何となく使っていただけかもしれないけれど、本当に正しいかな?」と分からなさがあることに気づいたときに、やっとそこからじゃあどうなんだと考え始める。そうやって考える作業は自分の中にあったものをただ発掘していく作業とは少し違っているし、その先で一緒に確かな答えを探そうとするコンサルタントはただのコンサルタントじゃなくて…。

寺田 ソクラテスになるってことね(笑)

瀬尾 ビジネス書の棚に置いてある、ただ答えだけが書いているような哲学書が哲学的に感じられない理由にも繋がるんでしょうか。自分の分からなさにぶち当たらないから。

サンタさんのこと何歳まで信じてた?

今井 これはその人自身を知りたいからこその質問ですかね。だから家族とか友達とか恋人とか、ある程度関心のある人にしかしない気がする。

瀬尾 一般的な問いに変えるために、「サンタさんのことを何歳まで信じるべきか」にしてみても、まあ何歳だっていいじゃんっていう気持ちになっちゃいますよね。哲学的な感じはしない。

今井 例えば、「子供は気づいていても、親のためにサンタさんを信じていることにすべきか?」みたいな問いにしたらどうでしょう。「家族関係とは何か」とか、「親に対して子は気遣いをすべきか」なんていう問いに発展しそうです。

瀬尾 そこまで抽象化されると、確かにどこまで親の期待に答えるべきかみたいな問いにもなるんですけれど…でもね、サンタさんどこかに行っちゃう(笑)

寺田 子供にとってのファンタジーの意味を問うこともできますね。「子供がファンタジーを信じるのにはどんな意味があるか」とか。

今井 「ファンタジーは人を幸せにするか」も面白そう。

寺田 それもいいかもしれない。

瀬尾 特に大人になってからのファンタジーと子供にとってのファンタジーの違いとかも考えたいです。

寺田 どう違うんでしょうねえ。

瀬尾 ここまでくると、サンタさんからだいぶ遠くないですか?(笑)

今井 確かに、「いつ結婚するの?」を哲学的な問いにしたときも、最終的に「結婚」っていうワードが消えてましたし、サンタさんも別にサンタさんは忘れられたほうが、その質問で本当に考えたい問いができるのではないでしょうか。「サンタさん」を残したまま哲学的な問いにするこってこと可能ですか?

瀬尾 問いに「サンタさん」が入っていることで重みがあるのは、親がリアルにサンタさんな人だけかもしれない。

― 一同爆笑

瀬尾 クラスではみんなサンタさんなんていないって言ってるのに…という深刻さ。問いに深刻さって必要なのでしょうか?無人島の問いは、本当に無人島に行かない限り深刻にならないですし。

寺田 どうだろう。深刻である必要はないけど、切実さは重要でしょうね。

今井 リアルサンタさんの子供にとって切実な問いを想像してみると、「異なる経験を持つ者たちにとって事実とは何か?」なんて良さそうです。

人類はいつ滅びる?

今井 これは私が答えを考えるべきではなくて、生物学者や未来学者に最新の研究結果を聞いたほうがいいように思います。Googleに答えが書いてあるような問いっていうのと同じですけれど、自分が考えるべき問いかどうかっていうのも、哲学的な問いかどうかの判断に関わる気がします。

寺田 自分で考えることじゃないっていうのは、切実な問いじゃないっていうこと?

今井 切実かもしれないけれど、私よりよっぽど正しい答えを出せる人がいると思うんです。私が考えても、とんちんかんな推論をしてしまいそう。

瀬尾 SF作家の集まりでは盛り上がって楽しい話題ですけどね!

寺田 そうね…「人類はいつ滅びるか?」を哲学的にするには?

瀬尾 「人類は存続すべきか?」とか「人類はいつか滅びるが、それでいいか?」とか。あるいは「生物はどのようにして滅びるのか?」とか…でもこれは専門家に聞いた方がいいかな。「人類がいつ滅びると地球に優しいか?」なら自分たちで考えられそう。

今井 その答えは常に「今すぐ」なんじゃないですか?(笑)

寺田 まあでも、地球ってそんな人類に優しくしてもらわなきゃいけないほどヤワな存在じゃないですよね。

瀬尾 そうですね。ただイルカとかクジラとか人類以外の他の生態系には優しくしてあげないと。

寺田 いくつかの生物種にとって人間は脅威かもしれないけど、地球全体で見ればそうそう… 。

今井 「人類は存続すべきか?」って良い問いだなと思うんですけど、どうしてだろう。「人類は存続すべきだ!」っていう大前提を疑っているからかな。ただ、そんなこと問いに付しちゃっていいんだっていうことに気づけるのは、救いだなって思うんですよね。

瀬尾 哲学ポイント、見えてきた気がします。

ゲームを終えて

寺田 だいぶ「する哲」が見えてきたと思う。しかし考えてみると、「する哲」でも切実な問いでないと哲学的に面白い問いにはならないし、やっぱり生き方に関わるような問いとか、その人が本当に大切にしていることに関する問いとか、そういう問いのほうがより哲学的だということになりそうですね。そうするといわゆる哲学史の中で問われてきて、今も多くの人が哲学的だと思っている問いは、やはり哲学的だったということにもなるかもしれないね。善悪をめぐる問いとか。

今井 例えば「時間とは何か」みたいな一見概念的な問いでさえも、私がある時間を生きているというところに立脚して始まっていて、だから時間について考えることにモチベーションが湧いてくるんですよね。

瀬尾 「時間とは何か?」は、普通はそこまで切実じゃないようなって思うけれど。

寺田 時間はちょっと切実な場面が限られてくるかもしれない。ただ、時間に追われるライフスタイルとか、そういうことを考え直そうと思ったときには「時間とは何か」って切実な問いになりうるよね。まあでも哲学の歴史の中では「いつかは死ぬ」っていうのがこの問いの一つの根源で、やっぱり切実ですよね。いつかは死ぬ、時間に限りがあるっていう。「私の時間には限りがある」っていうのは切実だよね。

ところでこれはあまり切実ではないけれど、ただ楽しいときには時間がパッて過ぎるのに、退屈なときにはすごく長いの、本当に謎ですよね。通勤電車の40分は本当に流れる速さが違う。なんででしょうね。

今井 心理学や脳科学からある程度答えをもらえると思うんです。でも、Googleや、専門家から答えをもらった上で、その答えを吟味してみるということも「する哲」の醍醐味なのではないでしょうか。身の回りには驚きや不思議、ちょっとした違和感がたくさんあって、それぞれにいろいろな回答がある。その回答に納得して良いのかを吟味してみたり、納得した上でさらにその価値や意味を問い続けてみたりしようとするところに、「する哲」の楽しさややりがいがあるように思いました。

寺田 あとは、問いが極まっていって、分からなくなったところから本当の「する哲」、本当に面白い「する哲」が始まるっていうのはその通りかなと思いましたね。

◇◇◇

インタビューを終えて原稿の確認をお願いしたところ、返信とともにこのようなお手紙をいただきました。寺田先生、ありがとうございました!

マイン河畔のフランクフルト、ルール工業地帯のエッセンでの研究会を終えて、今プロイセンのベルリンに滞在中です。昨日宿舎近くを歩いていたら、昔カント通りとライプニッツ通りの交差点近くにあった「カント・カフェ」が、ヴァルター・ベンヤミン広場に移転して、お洒落で大きなカフェになっているのを見つけました。以前、店名が哲学者カントに由来するのかどうか訊いたら、哲学は関係なく、通りの名前から、とのことでした。なのに、新しいカフェの壁には、サングラスをかけたカントの大きな絵、それを取り囲む「人間の尊厳」などの名言の数々…哲学で売り出そうとしているみたいです。ちなみに、15人ぐらいで哲学カフェをしても、全然文句を言われそうにない、広くゆったりしたカフェでした。東京にもあったらいいのに。

ところで、先日はせっかく研究室を訪ねてくれたけど、対話の流れはつねに瀬尾さんと今井さんがリードしていて、僕はあまり貢献していないなあ。まあ、哲学研究者の役割の一つとしてファシリテータを提唱している僕としては、本懐とも言えますが(笑)。

少し涼しくなったベルリンのオリヴァーアー広場より

寺田俊郎


このインタビューが掲載されている『ニューQ Issue01 新しい問い号』は、全国の書店およびAmazonでお買い求めいただけます。


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