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「子ども」は個にとっての存在か、社会にとっての存在か

区のホームページの不審者情報を見ていると、「えっ!?こんなことで!?」となるようなことで不審者扱いされている大人が多いとこの頃感じる。

具体的には、子どもへの呼びかけ。
例を挙げると、

いきなり「危ない!」と大声で叫んだ40代ぐらいの小太りの男性。

とかいうのがリストアップされていて、なんだか虚を突かれたような気がした(使い方合ってる?)

この出来事の背景はまったく分かりませんが、多分子どもが危なっかしいことをして遊んでいたのを単に注意してくれて、その場にいた子どもが親に大袈裟に騒ぎ立てて親が通報したのではないかと思います。

今年で29歳になる僕が子どもの頃は、まだ他所の大人が子どもを叱ったりすることが普通でした。

今だと、正当な叱責ですら不審行為と見做されるそうじゃないですか?🤔
全国的に子どもを狙った誘拐や殺人事件が起きているのは事実なので、子を持つ親が過敏になるのは充分理解できますが……

あくまでも独身子梨の僕の意見ですが、子どもは社会で育てるものだと思うんですよ。
タイトルで書いた、子どもは個にとっての存在か、社会にとっての存在かという話で言うなら、子どもは社会にとっての存在だと思います。

誤解を避けるために変な表現になってしまっていますが、
子どもは個人(親、家族)だけのものではなくて、社会のものでもあると主張したいです。

僕たちが納める税金は子どもたちの生活や教育に充てられるし、子どもたちはこれからの社会を担う存在だし、
僕たちが年老いて働けなくなった時(このまま行くと死ぬまで働くことを余儀なくされるかもしれませんが😂)に、若い世代が納める税金で生かされることになるから、間接的にすべての大人と子どもは互助関係にあると言えます。

だからこそ、例え他所の子どもでも、子どもたちに危険が及ばないように周囲の大人が目を光らせておくことは必要だと思います。
必要に応じて叱ったり、教育に寄与することも大人の役割の一つなのかな、とも。

でも、最近は明らかに子どもは個人の、その子が属する家族だけのものというように扱われているような気がするなあ🤔
このような問題だけじゃなくて、そんな風潮を感じることは他にもあって、

例えば、最近クレヨンしんちゃんのアニメでみさえがしんのすけやひまわりをお隣のおばさんに預けることをまったくしなくなったことが挙げられる。

クレヨンしんちゃんのアニメってただ世相を反映しているだけではなく、ここ10年ぐらいでかなりコンプライアンスガチガチアニメになっている印象があります。

僕が子どもの頃は、みさえがバーゲンに行くためにしんのすけやひまわりをお隣のおばさんに預けようとするも、拒否して付いてくる2人…みたいなシーンがよくあったんですよ。

このシーンも今だと育児放棄云々言う人もいるんだろうか…
別に母親が一時子どもから離れて趣味を謳歌したって良くないですか?

ちょっと話が逸れそうなので戻しますが、
こういったシーンがほとんど挿入されないのは、現代では普通のことではないからだと思うんです。

確かに現代の感覚で言うと、買い物に行くので子どもを預かってとお願いされるとびっくりする人、お願いする親にもびっくりする人が多いかもしれない😵‍💫

昔は普通のことだったかもしれなのに、そのシーンに違和感を感じるのだとしたら、現代人の感覚がだいぶ変わってきてるんだろうと思います。

この感覚は子どもを危険から守るために必要かもしれませんが…同時に子を持つ親の首も絞めているように感じるんだよなあ。

いざと言う時に周囲に頼れない、子どもを「個」の力だけで育てることを余儀なくされる今の日本では、出生率が下がっているのも充分理解できてしまう。

子育ての面で、親が社会に頼ることができて、社会にもそれを受け入れる器があれば、虐待や育児放棄、心中といった出来事も解消できるかもしれないのにな。

Best regards⭐️Noel🐬

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