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ひとつのバンドが終わるということ。‐plenty解散によせて‐

plentyというひとつのバンドが解散した。
2017年4月13日、発表されたそのニュースはあまりにも突然で、私は一気に悲しみの底に突き落とされた。
大学帰り、友人と寄った新宿のサンマルクカフェ。
「plenty、解散」
見えたスマホの通知をそっと閉じた。
何も変わらない日常のなかで、溢れそうになる涙をこらえようと必死だった。

そのとき、plentyとの別れまでに残された時間は約5カ月。
行き場のない気持ちを抱えながらも、私はその事実を受け入れるしかなかった。
解散がどんなに嫌でも、plentyの動向を無視するわけにはいかない。
雑誌のインタビューを読み、ライブのチケットを申し込んで、別れの準備を着々と進めていくこととなった。

plentyは常に変化していくバンドだった。
フロントマンである江沼郁弥の生き様が、作品やライブにくっきりと反映されていた。
それは、体育座りから、風をめざすまで。
悲しみの滲む音楽を掻き鳴らしていたバンドは、笑顔で愛を奏でるバンドになった。
「次何を作るのか考えたときに、また最初に戻ったから、終わりなんだと思った。」
インタビューで江沼が語ったこの言葉の持つ力は大きく、
ひとりの青年の蒼き日々がこのタイミングで終わったことに対して、次第に、不思議なまでに腑に落ちるように感じざるを得なかった。

plentyの音楽は実に普遍的で、その精度の高さゆえに私は彼らの音楽に惹きつけられた。
江沼が歌うのは、人生のどこかのタイミングで必ず訪れる、胸をしめつけるような別れや憂鬱。
僕らの日常で起きている取るに足らないこと。
出会いと別れ、苦しみと喜び、希望と諦めが同時に描かれる。
彼らにとって諦めとは最大の希望であり、そこから切り開ける未来があった。
その表現が私のものになったとき、これまでただ苦しかった気持ちが、晴れ晴れとしたようであった。
そのことを痛ましいまでに強く感じることになったのが彼らのラストライブであった。

全ての言葉が、音が、この日のために作られたかのように思えた。
それと同時に、これまでplentyの音楽とともに過ごしてきた日々が走馬灯のように思い出された。
自分のことなんて誰にも分かってもらえないと思っていたけど、「譲れないものがあるから ひとりでも歩くだけ」("待ち合わせの途中")というフレーズに救われたときのこと。
月曜日が嫌すぎて、"明日から王様"を繰り返し聴いていた日曜日のこと。
"よろこびの吟"のハイトーンボイスを寝る前に聴いて、毎晩泣いていた日々のこと。
"風をめざして"のMVで江沼さんが走っているのを観て、なんか新鮮に感じた日のこと。
ちょうど風が吹いて、奇跡みたいだったあの瞬間。
ひとつひとつ挙げていったらキリがないほど、私が大人になっていくその過程にはいつもplentyの音楽があって、何よりもplentyの音楽を信じていて、救われていた。

正直、怖かった。
plentyが終わったあとの自分がどうなってしまうのか。
plentyが終わることは、私のなかで一つの時代が終わることを意味していたからだ。
しかし、ライブを見届けた私のなかには、ただ大きな感謝だけが残った。
plentyはちゃんと消えてくれた。
最後まで誠実なバンドだと思った。

plentyに出会えたこと、初めて経験した感情がたくさんあったこと、本当に感謝しています。
嬉しかった。
今の私が、音楽が大好きで、健康に生きていること、plentyのおかげです。
これからもplentyの音楽と、これまでもらったたくさんのものを大切にして、
音楽と周りの人を愛して生きていきます。

また、どこかで。

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