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軍都としての京都と空襲

今回の「戦争体験を語り継ぐ」では、軍都としての京都と空襲を中心に京都の戦争の歴史について紹介します。
 

京都に空襲はあったのか?

 
 京都は、空襲や戦争の被害をあまり受けていないと思う人が多いのではないでしょうか。また、数多くの文化遺産を守るために空襲はなかったと聞いたことがあるかもしれません。
 
しかし実際には、京都市内では上京区西陣、東山区馬町、右京区太秦、市外では長岡京、舞鶴などで無差別空襲の被害を受けました。
 
西陣空襲は1945年6月26日午前9時40分ごろに起き、米軍機B29が爆弾7個を投下して43人が即死、66人が重軽傷を負い、建物292棟が全半壊するなどしました。市内で起きた空襲のなかで、犠牲者は最も多くなりました。
(参考:京都新聞
 

軍都としての京都

 
京都は、1945年5月に、都市の規模や爆風で効果的に損害を与えられるなどの理由から、広島、小倉、横浜とともに原爆の投下目標都市に選定されました。7月に最終的な目標都市から除外されるまでは、原爆の効果を正確に測定できるように空爆は禁止されていました。これが空襲による被害が少ないといわれる理由でもあります。
 
原爆投下目標とされた理由には、軍都として重要な役割を果たしていたことも挙げられます。現在の伏見区深草は、陸軍第十六師団司令部がおかれ軍都として栄えていました。戦後は軍関係の跡地が大学などの教育施設や住宅へと変わり、住民の町となっています。京都が軍都であったことを示す深草一帯のいくつかの戦争遺跡を紹介します。
 
現在の京都聖母女学院の本館は、1908年(明治41年)、日露戦争後に編成された陸軍第十六師団司令部庁舎として建設されました。明治の赤レンガ造りが特徴的です。



現在の龍谷大学や京都府警察学校の場所は、師団練兵場として使われており、京都教育大学の場所には、歩兵連隊が置かれていました。
 
また、京都市街から師団司令部に至る師団街道や第一軍道、第二軍道、第三軍道と呼ばれる道路の名前にも、軍の面影があります。



琵琶湖疏水に架かる師団橋には、陸軍の五芒星(☆)のマークが残されています。他にも、軍人湯という名前がついた銭湯があり、軍人の町であったことが感じられます。




 
 京都深草にある身近な戦争遺跡から、戦争や平和について改めて考えてみていただければと思います。
(参考:京都市HP
 

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