アイデンティティーの誤解と悩み解消。

アイデンティティーとは自己同一化のことをさす。 自分とは、なんなのか一見かんたんそうに見えるがそこに私達 人間を陥れるワナがある。


できるだけ簡潔に、日常に応用できるようお伝えしたい。そして今から伝えることは紛れもない本質だ。まず悩みとはなにかそこから始める必要がある。


ここでいう悩みとは、あなたの思考によってもたらすことをいう。例えば人間関係で先輩とうまくいかない。価値観があわない。自分を表現できない。周りにきばっかつかってしまう。対人恐怖で外に出ることすらできない。コンプレックスで苦しい。 吃音である。借金をせおっている。収入があがらない。年齢=異性関係がない。出会がない。彼氏彼女にふられた。、、、


とうとう、いろいろだ。悩んでいるということは苦しみをともなっているということだ。悩むという言語に苦しみという概念が含まれている。


その苦しみ、悩みを解消してほしいと私はこころからおもう。さて、本題にはいっていこうと思うが、 人間は日々、思考している。1日何千、何万と思考している。そのうち本質的な思考ないくらあるか? 大半の人は1つもない。断言できる。限られた人が数回あるぐらいだ。教養がある?私からすると、それも偽物だ。ただ時代の流れ的に徐々に本物な思考が増えてきていくと予想できる。ITの発達のより容易にそういった情報を取り出せるようになったからだ。

( 私自身、ネットという環境がなければ知識をえることもなかったし、発信もできなかっただろう。)


思考とはなにか。その思考をさぐっていこう。日常生きているとさまざまな仕掛けがある。広告であったり、対人でのマウントであったりとだ。それらは仕掛けるがわの思惑、目的がある。購買意欲をうながしたり、自己顕示欲をみたしたりとだ。そういったものが本物か?厳密にいえばそういったものに反応してしまうのは本物か?いやちがうはずだ。そのこと自他を認知できてる場合はまだいい。だが無意識に反応してしまう場合だ。こういう状態を軽い意味での洗脳といおう。



一例をあげたにすぎないが、日常さかんにおこなわれてえいる。いわば決められた思考体系(固定概念)で自動的に反応しているのだ。それも何千何万と反復しているのだ。学歴、年収これもいうなら将棋盤にすぎない。だがそれが現実というかもしれない。その通りだ。だが達観してほしのだ。あなたの得る知見によればそれは可能だし、むしろ腑に落ちるはずだ。それが悩み解消につながる。全然深刻な話ではない。



まずはアイデンティティーを理解する必要がある。自己同一性、つまるところ何を自分とみなしているかだ。幼児は親から与えられるおもちゃを「わたしの」という。それが無くなれば大泣きするし、違う子と取りあいになれば喧嘩をするかもしれない。それは自身とそのおもちゃを結びつけているからだ。厳密にいうとその対象物によって自身を強化(とでもいおうか、)できるのだ。だからそれの有無で典型的に感情が表にあらわれる。言うなればアイデンティティーの拡大解釈だ。



さすがに大人になれば物にアイデンティティーを見出す者はすくなくなるだろう。それらは便利や娯楽のために使かっているだろう。だが物質を離れるとすぐに多くの人が自分を見出そうとする。それがワルイわけではない。調和のとれた健全的なあらわれならなんの問題もない。いち娯楽としてたのしめる。その視点をもっているならいいだろう。



だが 気づかぬうちに自分で自分を苦しめていないか。気づきとは最大の知恵だ。その気づきをいまから与えたい。気づきのない思考こそが人間のジレンマだ。


「われ思う、故にわれ在り」この間違いにきづけるか。



これは自分の思考と自身を同一化してしまっていることがうかがえる。もう一つ例をあげよう。ある赤の他人の車がぬすまれたとする。おそらく自身になんの影響もないだろう。だが「私の」車が盗まれたら大騒ぎするだろう。「私の」という思考が自身に影響をおおいにあたえる。思考の同一化だ。事実だけを見れば、車がぬすまれた、確かにショックだ。だがそれは一現象にすぎない。それに対し怒りくるう、あるいは泣きわめく、「わたしの」という思考がそうさせたにすぎない。



思考とは自身のごくわずかにすぎないしあなた自身ではない。さらにその思考とは言語に縛られている。言語とは一人一人解釈がちがうものだ。そこに確固としたものはない。言語に限らずある概念とはじつに不安定なものだ。そこに自分を見出してはならないし、自身=思考とするのなら実に誤った解釈でつまらぬ存在だ。いやむしろ存在などしていない。だがおおくの人がこのワナにおちている。いわば自分で自分を定義して苦しめるのだ。思考によって自分を定義するのは自分に自分の限界を引くことだ。




思考にアイデンティティーを求めてはいけない。思考によって概念づけられた自己というのは邪魔ではないか? 終始他の目を気にし、自分の立場にあった言動をし、いつもの自分という限られた思考で物事を解釈する。事実と見方解釈はまるで違うのに。


そしてたいての場合 思考とは自分の中でパターン化させたものである。過去をひきずったものも多くあるだろう。こうしたものと自分を結びつけていないか。それに気づくだけでいい。気づけば解放できる。手放せる。今、選択できる。鉛筆を手から手放すようにできるはずだ。



もちろん思考に限った話ではない。自分の身体や役職もいえるだろう。だがそれらも結局のところ自分の思考によってうみだされている。思考ではなく核という自分をあることを本能レベルでわかるはずだ


一度 思考と自分を切り離してみてほしい。


この視点にきづけば悩み解消などもちろんのこと、自分の枠組みをこえたあらたな体験ができる。むしろそれが本質なのだ。


思考に縛られるとは閉鎖的であることだ。そんなこと宇宙はのぞんでいない。




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