日記 965531
ベータマックス。とは何か?
なるほど。VHSじゃないほうか。
そんなことはどうでもいい。ベータマックス、は語呂がよい。
以上。
物心ついてからというもの、気が休まった試しがない。
(中略)
「推し」という単語が嫌いだという話をしなければならない。
「推し」という言葉が世間を跋扈し始めてから、それが目に入るたびに、なぜこの概念が自分に嫌悪感を与えるのかについて、考え続けてきたが、とにかく、それを話せる場所が必要だ。
まず一つ目。シンプルな疑問からすべては始まる。
「なぜそんな『よく知らない人』に依存できるの?」
推しというのは、単に「好き」だというのとは訳が違うのは明白だ。
例えば「推し活」なる言葉があるように、推しに対して、自分の金銭や時間を捧げるということも含意しているのではないかと思う。
確かに「推し」について、メディアを通じて手に入るあらゆる情報を手に入れ、表舞台での実際の様子を観察することも可能だろうが、あくまで(弱かれ悪かれ)それはその人の「うわべ」だけだ。
推しと一緒に生活をしたこともなければ、推しと一緒に出掛けてご飯を食べて話をしたこともないはずだ。
「推し」という単語には、そんなよく知らないはずの対象を「頭から丸ごと」好きであるという意味が含まれているように思える。そしてそれは自分にはできない。しかし世の中は「推し」であふれている。狂っているのは自分なのか。
二つ目。自分と好きなものの関係性について。
「作った人と、作られたものはできるだけ分けて考えたい」
例えばある曲を好きになっても、それを創ったアーティストを好きになるかどうかは別だ。個人的に、双方を好きになることは稀だとすらいえる。素晴らしい曲だと思って聞いていて、ふとそのアーティストのインタビュー記事を読んだりすると、これがまた全然気に食わないということもよくある。
俳優と演技、「ある人間」と「その人間の表舞台での姿」。
これらは、ミュージシャンと楽曲のように、創作者と創作物の関係にあると捉えることができる。
そして、自分はこれを分けて考えたい。こんな場合「推し」という言葉は実におさまりが悪い。単に「楽曲が好き」だという方が正確だ。
そんなわけで、自分には推しがいない。
ここで一句。
ベトナム
ゴミ箱、インチキ
姥捨て山
名句が生まれたところで、この辺でお開きにする。
私の今一番の推しは、右肘から鋭く尖った牙を生やし、額には第三の目、青い髪をした謎の男性です。
繰り返します。今日午後、右肘から鋭く尖った牙を生やし、額には第三の目、青い髪をした謎の男性の、行方が分からなくなりました。お心当たりの方は、最寄りの警察署まで、お知らせください。
ピース
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