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【ブッダ】「ダルマ」「縁起」禅の教室①

学びたいものがあり過ぎて

中途半端過ぎる学びではありますが、

現状できることとして

『禅の教室』
藤田一照 伊藤比呂美

の序章で眼に留まったもの

を残させて頂きます。

序章 そもそも禅ってなんですか?


仏教の基本的なおしえとは


比呂美 世の流れに逆らうもの、ですか。難しいですね。
ダルマについてもっと詳しく教えてもらえますか。
一照 うん、難しいですよね。
ダルマというのは漢訳仏教では法と訳しますが、
もともとはバラモン教の中ですでに多義的に使われてきていて、
シッダールタが最初に作った言葉ではありません。
インドの文化で一番大事だと思われているのは
「秩序」だと思うんだけど⋯⋯。
比呂美 え、そのバラモン教ってなに? 
ヒンドゥー教ではないんですか?
一照 簡単に言うと、シッダールタが生きていたころに
主流だったインド古代の宗教のことです。
今のヒンドゥー教の母体に当たるといえばいいかな。
仏教は、バラモン教との緊張関係の中でとらえる
とわかりやすいかもしれません。
比呂美 インドの文化で大切な秩序って? 社会の秩序?
一照 社会だけでなく、もっと大きく宇宙の秩序と言ってもいいです。
とにかくインドでは、秩序を乱すことが最悪のことなんですよ。
「今までのものの在り方を変える」のが
即ち「秩序を乱す」こと。
彼らの見方では、すべてのものにはその「分」があるというわけです。
日本語でいう「分をわきまえる」の分だね。
たとえば椅子には椅子の本分が、机には机の本分がある。
そして、すべてのものが自分の本分を尽くしていれば、
宇宙はちゃんと秩序だって動く。
これを守り続けることが一番大事なのだと。
比呂美 でも本分というのは、
それぞれのものにもともとついている実質でしょう。
一照 そう、それをダルマというんですよ。
比呂美 もともとある実質だったら、乱れないじゃないですか。
どうやったら乱れるの?
一照 たとえば欲望とかを考えてみればどうでしょうか。
比呂美 ああ、そう来るわけですか。
一照 人間は
「ここじゃいやだ、もっと別なところに住みたい」
「もっとうまいものを食いたい」
「もっといい服が着たい」
「もっと出世したい」
とか、いろいろな欲望を持っている。
だから秩序を乱しがちになる。
秩序の重視ということがカースト制度の背景にあるんです。
カースト制というのは前世からのカルマの結果で、
トイレ掃除する身分に生まれた人は、
今世では、もうそれは本分であり、義務なんだから、
文句言わずにその仕事にベストを尽くすべきだと。
臭いからィャだなんて勝手なことを言うのはダメなんですよ。
秩序を守るためには分を守らなければならない。
その本分というか義務にあたるものがダルマです。
比呂美 だけど、そういう意味のダルマと、
仏教でいうダルマとは、また違うわけですよね。
一照 仏教は仏教でダルマにさらに独自の意味合いを込めたので、
微妙に違います。仏教でいうダルマとは、また違うわけですよね。
ダルマというのは
「シッダールタという名のブッダが説いた教え、教法」
という意味もあれば、
「宇宙の法則」、あるいはその法則によって支えられている一切の事物
を指す場合もあって、非常に多岐にわたっています。
だから他の言語に翻訳しにくいんですよ。
比呂美 三つとも、全然違うじゃないですか。
一照 違うんだけど、
仏教の考えの中では潜在的に関連しているので、
全部ダルマというひとつの言葉でカバーするんですよ。
こういうのは、その用語法に慣れるしかないです。
その背後にある考え方も含めて。
比呂美 むちゃくちゃですねえ。
法則も、真理も、存在も、教理もダルマなんですか⋯⋯。
宇宙といえば、「如来」という言葉の意味はたしか、
「如」から宇宙の真理が「来た」ことからきているんですよね。
「如から来た」という、その「如」とか「真如」とか。
これも私はよくわからないんですよ。いったい何なんだろうと。
一照 シッダールタが菩提樹の下に坐って、
ダルマに目覚めたときに言ったとされる有名な言葉があります。
「奇なるかな、奇なるかな、
一切衆生(いっさいしゅじょう)悉(ことごとく)く
皆如来の智慧と徳相(とくそう)を具有(ぐゆう)す」。
経典を訳している詩人の前で面映ゆいですが、
現代日本語にざっと意訳しますと、
「不思議だ、不思議だ。
山も川も木も草もすべての生きとし生けるものが
如来の智慧と徳を備えて輝いている」
ということなんですね。
これがダルマに目覚めたときの第一声ということになっています。
比呂美 「如来の智慧と徳」の如来とはなんですか。
一照 如というのは「言葉でいえないもの」です。
概念によってこういうものだと
アイデンティファイ(同定)できないものを指している。
「如」というのは「そうあるがままの真実」という意味だからね。
時間的にも空間的にもなんとも限定できないものが「如」なんです。
僕は如というのは縁起のネットワークというか、
縁起の網の目全体であると解釈しています。
縁起の網の目は無限にあって、
互いに影響を与え合いながら連動している。
「私」を含めて、すべてがそういう形で存在している、
その全体を指して如。
如来というのはそういう如からやってきた者ということで、
まあ真理の体現者というような意味になります。
でもさっきの第一声はあらゆる物が
そういう「如(にょ)から来(らい)した」在り方をしている
ということでしょう。
比呂美 その「縁起」ということばも、
仏教の重要なキーワードですよね。
「如とは縁起の網の目の全体」
と言うときの「縁起」とは何なんですか。
一照 僕は、縁起とは、つながりだと言ってます。
たとえば僕らは普通、自分がここにいて、
自分とは別個に存在している世界が周りにあって、
いろいろなことが自分の身に降りかかってくるのだ
と感じていますよね。
点みたいな自分が中心にいて、
自分とは別個の人や物がその周囲にやっぱり点みたいに
バラバラと実体的に存在する、
という世界の受け止め方をしている。
そのバラバラな点に、
コップとかテーブルとかそれぞれ名前がついている。
しかしこれは便宜的に名づけているだけで、
実際の在り方は
われわれが当たり前に思っているようなものとは違うよ、
というのが仏教の説くところなんです。
比呂美 とすると、実際の在り方は?
一照 自分や他の人や物が
点みたいにバラバラに実体的に独立して在るのではなくて、
最初からすべてがつながって存在している。
だからネットワークとか網の目といったんですが、
それが縁起という教えです。
まず点がそれぞれ単独にあって、
それからそれらが関係し合うんじゃなくて、
まずつながりというか関係性があって、
そこから点みたいに見えるものが析出してくる。
比呂美 それは因果として、
つまり原因と結果として、つながってるということ?
一照 因と果という一方的で単線的なつながりではなくて、
縁という間接的な条件も考慮に入れた
もっと複雑でダイナミックなつながりなので、わたしは
相互的関係性とか関係性のネットワーク
と言っています。
一方的なつながりじゃなくて全方向的なつながり。
今時の言葉で言えば
ホーリスティック(全体論的)でシステム的な思考ですよね。
比呂美 この世はすべて関係性の網の目の中にあるということですか。
すごいですね。
それは完全にシッダールタという人が考えついたことなの?
一照 シッダールタが考えついた、というよりも、
そういう在り方で自分も含めて字宙ができて動いていることを
初めて発見して、それを表現したといったほうがいいかもしれない。
そんな革新的な見方をする人は、それまでいなかったわけですから。
比呂美 あの時代のインドには唯物論やら虚無主義やら
いろんな思想を主張している人たちがたくさんいましたよね。
その人たちは、そういうふうに考えていなかったんですか。
一照 シッダールタのような関係論的な縁起の主張は
インド的な思想の中で、いや、人類史的な規模でみても、
非常にユニークなものだったと思います。
だから「誰にも理解できないだろう」なんて思ったのかもしれない。

仏教の言葉を開きたい


比呂美 私ね、お経を翻訳していていちばん難しさを感じたのは、
「縁起」とか「因果」とか、あるいは「阿弥陀」とか、
さっき言った「仏陀」や「釈尊」などもそうですが、
そういう言葉が私たちの文化の中にすでに定着して、
みんながそれを普通に使っていることだったんです。
「縁起」とか「因果」なんて、もう日常語になっちゃっているでしょう。
でも、翻訳しようとすると、
そこだけ真っ黒く塗りつぶされたブラックボックスみたいな感じ。
あー「縁起」ね、知ってる知ってるって、
ほんとはわかってないのに、スッと通り抜けてしまって、
本当の意味が伝わってこない。
だから、そういう言葉は使わずに、いちいち開いて、
説明するなり他の言葉で言い換えるなりしているんですよね。
一照 なるほど。もとも仏教の教えである「縁起」は、
一般にいう「縁起がいい」「縁起が悪い」の語源になっていますが、
意味というか使い方が違いますからね。
もともとの意味の縁起に関しては、
いいとか悪いという形容詞はつけられない。
比呂美 そもそもの縁起の意味は、つながりですか。
ここに自分がいるけど、それは独立しるのではなく、
前の生からつながってくるということですね。
一照 シッダールタの言葉で
「此れ有れば微有り、此れ生ずるが故に彼生ず。
此れ無ければ彼無し、此れ減するが故に彼滅す」
とあります。
縁起のいちばんの基本は、
「これがあるから、あれがある」
ということです。
その逆に
「これがないから、あれがない」
ともいう。
「これ this」か「あれ that」
というのは具体的なものを指しています。
網の目ですね。たとえば人間だったら、
「私がいるからあなたがいる、あなたがいるから私がいる」
となる。
比呂美 ふーむ。すごく素敵な考え方ですね。
それが仏教の基本、シッダールタの「悟り」なんですか。
一照 悟りを発見したんじゃなくて、
ダルマを発見したのを悟りと呼んだんです。
悟るって、知るとか理解する、会得する
ってことですから、
そういう縁起の洞察が悟り。
それを「無我」という人もいますが、
無我も縁起を元にしているから派生語なんですよ。
比呂美 無我⋯⋯竹脇無我という俳優さんしか思い浮かばない⋯⋯。
それは何ですか。
一照 無我というのは、そのものが自分だけで、
それ自体で単独に存在しているものはない、
という言い方です。
これがあるからあれがある、
という式を展開してゆくと無我になる。
比呂美 無我という字を見ると、
自分が無いとか、自分を無くす
みたいなニュアンスに読めてしまうけれど、
この我はそういう「われ」じゃないのね。
一照 そう。日本語だと我を「我が強い」とか
「我を無くす」のように使うので、
しばしば自己中心性のようにとらえられますが、
無我というときの我は、もっと限定された仏教的意味があるんですよ。
ここで我というのは、
ほかと関係なくそれ自体で存在する力を持っているものという意味で、
それをサンスクリット語でアートマンといいます。
これが漢語で「我」と訳されたんです。
そのアートマンと対になっているのがブラフマン、
日本語では梵天の「梵」の字を当てます。
比呂美 そのアートマンとブラフマンっていうのも、
ちょくちょく出てくるんですが、
読んでも、読んでも、ぜんっぜんわからないんですけど。
説明してください。
一照 アートマン(我)は
個人の本体として考えられているもので、それ自体で存在し、
他とはまったく無交渉、無関係に独立自存しているんです。
だから永遠不変の実体。
一方、ブラフマン(梵)は宇宙の本体、根本原理のことです。
瞑想によってアートマンとブラフマンが本質的に同じものである、
つまり「梵我一如」を悟ることによって
輪廻転生の繰り返しから脱出することができるというのが、
インドのスピリチュアリティの主流の考え方なんです。
比呂美 やっとわかったような気がしましたが、
「梵我一如」って言われたら、またわかんなくなっちゃいました⋯⋯。
つまり、アートマンとブラフマンが一緒だということね?
それはシッダールタも言ったことなんですか。
一照 いいえ、シッダールタはむしろ
梵とか我といった教義に批判的でした。
アートマンとかブラフマンという考え方は、
古代インドのバラモン教からヒンズー教へと受け継がれていった
インドの正統的な宗教思想ですが、
シッダールタは「アートマンなんてものはない」
と主張した。だから、その意味でとてもラディカルなんです。
比呂美 シッダールタはアートマンを否定したわけですね。
一照 そうです。我として認められるものはない、
というのが無我ですから。
仏教の考え方では、すべては変化するので
アートマンのような永遠不変の「例外」的存在を認めないんですよ。
縁起というのは別のいい方をすると
「すべては条件(縁)によって生起(起)する」
ということだから、アートマンみたいなものが存在する余地がない。
たとえばベトナム出身の禅僧で平和運動家、詩人でもある
ティク・ナット・ハンさん(一九二六〜)は、こんな表現をしています。「あなたが詩人なら一枚の紙に、
雨、雲、木、大地、太陽、
そういったものが全部見えるはずだ」と。
つまりこの紙は雨や雲といった「紙でない要素」からできていて、
それを全部取ったら、紙は存在できないと。
比呂美さんは詩人なんだから、もちろん見えますよね(笑)。
比呂美 う。見えてないかも。
紙から紙ではない要素を取っちゃったら、紙じゃなくなっちゃいませんか。
一照 紙でない要素とは、
つまりこの紙がここにこうして存在するために
かかわったすべてのものやことです。
人間の労働ももちろんそうだし、
紙の元になるパルプを作るための木が育つのに、
大地も太陽も空気も雨も必要だったでしょう。
つまりこの紙一枚が存在するためにも、
紙以外の宇宙すべてがこれにかかわっている。
まさに「此れ有れば、彼有り」ですね。
それが縁起の考え方で、仏教はこれで全部一貫しているんです。
「無我」だけでなく「無常」も縁起の派生語。
どんなものも、それだけでは存在できないので、
他が変わったら変わらざるを得ないのですから安定できないでしょ。

こちらの内容は、

『禅の教室』


発行 中央公論新社
著者 藤田一照 伊藤比呂美
2016年3月25日発行

を引用させて頂いています。




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