旅と国とアイデンティティ

12月の半ば頃から、3週間ほどヨーロッパに滞在していた。いつもなら日本に戻って友人や家族と会ったりするのだが、11月に一旦帰ってしまった手前冗長な気がしたのもあり、せっかくなら海外で新年を過ごすか、とまあ思いつきだ。ドイツから始まり、南イタリアを回ってマルタまで南下し、スペインを経由してポルトガルを回る旅だった。それぞれの国で言語も違えば文化も違って、国民性というものは良くも悪くも存在するものだということを実感した。

旅の途中で、よく"Where are you from?"という質問を受けた。中学生でも知っているフレーズだが、これは僕のような人間にとっては非常に困る質問である。僕は中国の生まれであるが、一歳より日本に渡り、二十数年間を過ごし、そしてアメリカに渡った。国籍は中国であるが、メンタリティは日本人のそれに近い。中国語よりも日本語の方が得意だ。一方飛んできたのはカリフォルニアからである。ではどうするかというと、タクシーの運ちゃんやお店の店員などぼったくられリスクがある相手には"China"、警戒されたくないときは"Japan"と、使い分けるわけである。話の流れで「今はカリフォルニアに住んでるんだけど」と補足することも多々あったが。

似たような人は集まるもので、僕の周りには同じような背景を持った人が一定数いる。彼らは日本に来た時期やその後の環境によって、中国語が喋れたり喋れなかったり、中国人っぽかったり日本人ぽかったりするのだが、それぞれ独特のメンタリティを持っていて面白い。平均的な中国人よりは丁寧でマナーがよく、平均的な日本人よりはオープンで打ち解けやすく、一方で名誉欲が強く見栄っ張りなことも多い。日本社会にも中国社会にもどちらも100%染まることはなく、国家・民族的アイデンティティはふわふわ宙に浮いた感じがする。

アイデンティティが宙に浮くのは不思議な感覚だ。大学時代、よく日本をよくしたい、国を盛り上げていきたい、という人がいて、それは大いに結構なのだが、自分にはそのような感覚がいまいちわからないなぁとも思っていた。100%社会に同化できるわけでもなく、つねに奥歯にものが挟まったような違和感を感じて生活してきたからかもしれない。外に出れば完全な日本社会、家庭では小さな中国社会。移民の家庭で生活するということはそういった違和感とうまく付き合っていかなければならないという側面がある。

一方で、そのような宙に浮いたアイデンティティはある意味自由である。(言葉さえ通じれば)世界中どこにいても本質的な違いはないし、国に貢献するという概念の欠如はある意味悲しいかもしれないが、自分の幸せを最優先して行動できることでもある。親戚や家族が周りにいるから、慣れているから、海外にいくのは未知で怖いから、といった引き止める要因がそもそもないので、自分に本当にあった労働・居住環境が整っている国に抵抗感なくぽんっと出ていくことができる。 

それでも、国というアイデンティティからは世界のどこに行っても逃れられない、ということ言う人もいる。自分は無頓着でも結局周りの人がバイアスがかかった目で見るからと。確かに今はまだそうかもしれない。だがそういった国にアイデンティティを置く考え方は今後国境がどんどん曖昧になって、人の流動性もさらに上がるにつれて、少しずつ時代遅れになっていくのではないかと思う。それが歓迎すべきことかはわからないが、少なくとも僕のような人間にとってはより生きやすい世界である気がする。

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