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高等学校国語科が大きく変えられようとしています(5)

 PISA(Programme for International Student Assessment=生徒の国際学習到達度比較調査)。2000年代以降、「学力低下」をめぐる議論ではしばしば言及されるので、実際の問題は見たことがなかったとしても、名前は聞いたことがある方も多いはずです。2000年に始まり、以後3年ごとに行われている比較的新しい調査ですが、2003年調査で、日本の生徒(15歳)の「読解力」が14位に下がった(2000年調査は8位)ことは、大きな衝撃をもって受け止められました。

 以来、このPISA調査への対応は、日本の教育政策の立案に、さまざまなレベルで影響を及ぼしています。早くも2005年には文科省が「読解力向上プログラム」を公表、ひとつの指針として、「PISA型読解力」という標語が提案されました。
 2007年度から始まった「全国学力・学習状況調査」(いわゆる「全国学力テスト」)の国語の問題にも、PISAへの対応が強く意識されている、という観察もあります。2010年6月(民主党鳩山内閣です)で閣議決定された「新成長戦略」では、「2020年までに実現すべき成果目標」として、「国際的な学習到達度調査において日本が世界トップレベルの順位になることを目指す」と明記されました。ここで言う「国際的な学習到達度調査」が、PISAを指すだろうことは間違いないでしょう。
 
 こうして見ていくと、PISA調査が、21世紀に入って以降の日本の教育政策にとても大きな影響を与えていることがわかります。しかも重要なことは、PISA調査じたいが、こうした使われ方を意図して設計されている、という事実です。
 
 教育学者の松下佳代氏の論文によれば、PISA調査は、グローバル化する世界の中で身に付けるべき能力を指標化し、そのデータを収集・分析することで、国家間の比較と政策の相互借用を推進しながら、世界的な教育水準の構築を目指すものです。つまり、あらかじめ国家どうしを競わせ、教育政策のパッケージを共通化させることが目指されている。
 どうしてか。PISA調査の中には、「現代の経済生活」への適応性、もっと言えば、グローバル化した世界の労働市場で「選ばれる」労働者となるためのスキルの獲得、という発想が色濃く刻みこまれてしまっている。PISAは、政策の変化にかかる指標も調査項目に含めているので、各国は、「グローバル化した世界の労働市場で「選ばれる」労働者」を育てるための教育という、もう一つのグローバルな競争に駆り立てられることになる。
 以上の観察と分析を踏まえ、松下氏は、PISAが規定するリテラシー(読み書き能力)の問題点を、以下3点にまとめています。

 ①PISAのリテラシーは、21世紀のグローバル資本主義的に適合的なものと想定されたリテラシーのことである。
 ②PISAのリテラシーでは、教育の内容(何を教えるか)よりも、国際的な比較が可能な計量可能性の方が重視されている。
 ③PISAのリテラシーでは、論争的な問題が問われているようで、政治的な問いは回避されている。そのため、問題の内容がデータ解釈のスキルへと単純化される傾向がある。
 
 PISA調査とて、ひとつの物差しに過ぎません。ならば、その物差しがそもそも何を測るためのものなのかに自覚的であるべきだ、だから、「PISAリテラシー」を使いこなすリテラシーを持つことが大切だ、という松下氏の問題提起は重要です(注3)。

 (注3)松下佳代「PISAリテラシーを飼いならす――グローバルなリテラシーとナショナルな教育内容――」(『教育学研究』81巻2号、2014年6月)。

 かつて大学受験の競争の激しさ厳しさが問題となったとき、しばしば「ペーパーテストの点数が学力とイコールではない」と語られました。本質的にはPISAも同じです。この調査が計測することのできない(そもそもしようとしていない)学力は、厳然としてあるわけです。

 でも、文部科学省は、どうしてもPISAの順位を上げたいらしい。ここからはわたしの(あまり上品ではない)勘ぐりですが、そこには、「財政規律」を錦の御旗に、教育・研究におカネを出すことを渋り続ける財務当局との綱引きがうかがえるように思います。
 国際的な比較調査であるPISAの順位が上がれば、教育政策の「成果」が出ていることになり、文教予算の正当性が担保される。つまり、それだけの予算を確保する説得材料となる――。
 少し前に大阪市長が、「全国学力テスト」の結果を問題視して、数値目標を設定し、学校予算や先生方の給与に反映させる仕組みを作りたいと発言、物議を醸したことがありました。でも、わたしの勘ぐりがそう的を外していないなら、大阪市長の不見識をにわかに嗤えなくなるのではないか。なにしろ一国の文教予算が、一つのテストによって影響されている(あるいは、そのように信憑されている)わけですから。

 いわゆる「大学ランキング」ものも同じと思いますが、とにもかくにも何らかの順位がつけられてしまうと、その数字のイメージのみが独り歩きを始めます。

 その順位はどんな基準にもとづいているのか?
 なぜそもそも順位付けがなされる必要があるのか?
 そのランキングで上位を目指すことに、いったいどんな意味があるのか?

 このような、当然問われるべき問いが問われることはあまりない。ランキングという可視化の手段が、「目的」へとすり替わってしまうわけです。
 PISA調査が、対象国をこうした競争へと追い立てるべく設計されていることは、さきに述べた通りです。そして、その競争は、国や県、政令市のような単位でいまは表象されていますが、結局競争に駆り立てられるのは他ならぬ生徒たちです。

 もちろん、「学力」の定義は簡単ではありません。ですが、とくに国語科の教育が、比較・計量可能な一つの尺度に対応する方向へと大きく舵を切っていくことには、強い懸念を覚えずにはいられません。
 西山雄二氏の著書『哲学への権利』(勁草書房、2011年)の中で、管啓次郎氏の「大学の教育目的は学生を独学に耐えうる人間に育て上げる点にある」という発言が紹介されています。わたしは、人文の学びとは、理念的にはそのようなものであるはずだ、と考えています。

 あらかじめ決められた枠組みの中で情報を組み合わせ、一定の答えを導き出すことだけが「思考すること」ではないはずです。(根本においては人文学の学びに由来する)国語科の教育は、究極的には、価値の尺度、物差しのあり方自体を問い直し、いま自分たちが何を習い、何を学び、どんな価値観の中にいるのかを批判的に捉え返すことができるような想像力、思考力を鍛えることを目指す、そのようなものであってほしいとわたしは思います。このような言い方が許されるなら、国語科の学びは、学校/教育じたいを批判・否定すること、学校/教育で教わる内容を最終的には受け止めないことをも許容するものでありたい、と。
   
(続く)

#教育 #国語科 #新学習指導要領