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高等学校国語科が大きく変えられようとしています(1)

 高等学校国語科の授業がいま、大きく変えられようとしています。

 2018年3月に告示された新しい学習指導要領、2020年度から実施される大学入試センター試験に代わる「大学入学共通テスト」(いわゆる「新テスト」)という、どういうわけか「2020年」に紐付けられた一連の「教育改革」の一環として、です。

 声高に叫ばれる「改革」が、必ずしも事態の「解決」や「改善」に向かわないことは、もはやこの国この社会ではお馴染みの光景ではあります。また、今回の「改革」の問題点については、大学入試の外部・民間試験の導入が推進されようとしている英語科(注1)や、高校における「道徳教育」的な内容を含む科目「公共」の新設が決まった地歴公民科でも指摘されています(注2)。
 いまのところ国語科の問題は、こうした他教科の影に隠れてしまっている感がなくもない。ですが、元高校国語科教員で、いまは中高の教員養成に携わっているひとりとして、今回の「改革」の行く末に関しては、強い危機感を抱いています。高等学校「国語科」が下支えをしてきた、この社会の「知の土台」の基礎の部分が掘り崩されてしまうかもしれない、と考えているからです。

(注1)阿部公彦『史上最悪の英語政策 ウソだらけの「4技能」看板』(ひつじ書房、2017年)ほか、詳しい批判が出ています。
(注2)西川龍一「高校学習指導要領改訂 新しい学びとは」(時論公論)、NHK解説アーカイブス(2018年2月14日)           

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 では、高等学校国語科の何がどう変わるのか。事実関係の確認から始めましょう。
 
 現行の学習指導要領(2009年度告示)の科目構成と、今回の新しい学習指導要領(2022年度から、これに則った教科書の使用が始まります)のそれとを比較してみます。
 
 《現行》平成21(2009)年度告示、2013年度実施。( )内は単位
 必履修科目 国語総合(4)
 選択科目  現代文A(2) 現代文B(4)
       古典A(2) 古典B(4)
       国語表現(3)

 「単位」は、いろいろ説明すると長くなるのですが、基本的には「週に何回その科目の授業があるか」ということです。現在の高等学校では、1年次に、現代文・古文・漢文・表現の4要素を含む科目としての「国語総合」を、2・3年次をまたいで「現代文B」「古典B」をそれぞれ学ぶというのが一般的な流れでしょう。このほか、学校によっては、独自の「学校設置科目」を設けている場合もあります。
 
 《新》 平成30(2018)年度告示、2022年度実施。( )内は単位
 必履修科目 現代の国語(2) 言語文化(2)
 選択科目  論理国語(4) 国語表現(4)
  文学国語(4) 古典探求(4)

 新学習指導要領では、必履修科目として、従来の「国語総合」に振り分けられていた4単位が、「実社会における国語による諸活動に必要な資質・能力を育成する科目」だという新科目「現代の国語」、「上代から近現代にかけて受け継がれてきた我が国の言語文化への理解を深める科目」としての「言語文化」とに分離されます。
 選択科目には、「国語表現」「古典探求」に加え、「論理国語」「文学国語」という耳慣れない(なんだか奇妙にも聞こえる)名の科目が作られました。現在の高校「現代文」を、いわゆる評論文と小説・詩・短歌・俳句などに分割する、というわけです。この科目区分がはらむ問題については後に詳しく述べますが、大事なことは、「高校の総授業時間は基本的に変わらない」ということです。他教科とのバランスを考えれば、そもそも国語の授業に割ける全体の時間数は限られています。では、各学校はどういう判断をするか。生徒たちの進路をなるべく開かれたものとするために(つまり、大学進学を含めた多様な進路の可能性を担保するために)、ほとんどの学校は、まず間違いなく「論理国語」「古典探求」の2科目を設置することになると思います。大学入試において評論文の出題の方が多い以上、そのような選択をせざるを得ないからです。

 だから、科目「文学国語」が4単位の科目として新設されたからといって、「文学」の授業が増えるわけではたぶんない。むしろ、今回の学習指導要領の顕著な特徴は、近現代の文学教材(詩・短歌・俳句をふくむ)の実質的な縮小であり、教室からの「排除」です。必履修科目のレベルでも、近代の文学的文章は、科目「言語文化」の枠内に押し込まれています。
 もう随分前のことですが、いわゆる「ゆとり教育」批判の文脈で、「漱石や鷗外が教科書から消える!」という議論が語られたことがありました。でも、それはメディアの語り方・取り上げ方がミスリードを生んだだけで、高等学校教科書には、相変わらず漱石や鷗外の作品は掲げられていたのです。でも、もし、新学習指導要領が文字通りに実施されてしまうと、いままで「定番」として取り上げられてきた小説教材、『山月記』(中島敦)、『こころ』(夏目漱石)、『舞姫』(森鷗外)さえ、高校の教室で学ばれなくなるかもしれない(私自身は、その公算がかなりあると思っています)。 

 わたしが最初に述べた「この社会の基礎的な知の土台」への危機感は、ひとつにはこの問題とかかわっています。でも、それだけではない。ただ危機感を煽るだけでは、一時的には話題になるかもしれませんが、問題のありかを捉えそこねてしまう可能性がある。遠回りをするようですが、新指導要領に対する疑問点・問題点を議論するうえでは、現在の高等学校「国語科」が、そもそも何を学ぶ時間となっているのか、いったい何が・どのように教えられているのかを、まずは確認しておく必要がある。少なくともわたしはそう考えています。

(続く)