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高等学校国語科が大きく変えられようとしています(10)

 ひとまずこの段階で、今回の学習指導要領が提示する「新しい国語科」の問題点をまとめておきたいと思います。

[1]「読むこと」の削減
 見られる通り、今回の指導要領では、「話す・聞く」「書く」活動にかなりの授業時間を割くことが求められています。国語科の授業時間数は基本的にはそう変わらないはずですから、新しい国語科のプログラムが文字通りに実施されれば、「読む」時間が相当削られることは間違いない。

 ですが、それ以上に問題と思うのは、何を「読む」のか、という中身、教材の質の部分です。『解説』の文言に従うなら、「現代の国語」「論理国語」では、「現代の社会生活」にかかわる文章や実務的な文章しか扱わないことになる。つまり、文学や文化にかかわる文章や、直接「現代の社会生活」とは結びつかないけれど、「人間とは何か」「近代とは何か」「社会とは何か」を深く捉え返すような文章は、教材としては適切ではない、ということになります。
 逆に高2・高3で「文学国語」を設置した学校の生徒さんたちは、2年間、文学的な文章にたっぷり触れ続けることはできるが、文学評論以外の論説文や評論文を教室で読むことが難しくなる。

 つまり、各学校がどのような選択をしても、国語科での「読む」内容が大きく偏ってしまうことは確実であるわけです。

[2]人文学的な知の軽視?
 ですから、問題は単に「文学」の実質的な排除というだけではない

 これまでの高校国語科が、自然科学を含む日本語による「知」の基礎的な部分をカバーしようとしてきたことは、すでに述べた通りです。
 そして、そうである以上、たんに〈いま・ここ〉で観察できる問題だけではなく、〈いま・ここ〉で起きていることを立ち止まって考えるうえで必要な、ものの見方・考え方を学ぶような文章も教材に組み入れてきました。その文章の発想や、考える枠組みをもとにすれば、別のさまざまな事態を考えるヒントになるような文章、あるいは、生徒さんたちの〈いま・ここ〉ですぐに役立つわけではないけれど、いつかどこかでその含意が発見できるような、問題提起的な教材も取り上げてきたわけです。

 そのような文章は、高校生がひとりで読むことはなかなか難しい。
 教材の翻訳者としての教員がいて、教室で他の生徒さんたちと一緒に読むことで、いろいろな読み方、自分とは違う理解へとつなげることもできていたわけです。
 
 ですが、新しい国語科では、そんな時間は確実に減ることになります。もしそうなれば、どんなことが起こるでしょうか?
 高校の国語科で、歯ごたえのある根本的な問いに触れる機会を失ってしまった生徒さんたちは、高校を卒業したあと、どんな本を手に取ることになるでしょうか。大学等に進学した場合、それぞれの専門的な読書に対応することが、これまで以上に難しくなってしまうのではないでしょうか?

[3]高校国語科の蓄積の無意味化?
 今回の大がかりな改革は、高校国語科の姿を大きく変えることを目指しています。
 ですが、何かを変えるということは、捨て去られる何かがある、ということです。新しい国語科では、科目編成自体が大きく変わるので、これまで現場が積み上げてきた実践の蓄積が「使えない」ものとなる公算が大きい。

 でも、このノート「2」でも触れたように、高校国語科とて、ずっと同じようなことをやってきたわけではありません。
 また、同じことのくり返しのように見えるものでも、そこにはれっきとした理由があるわけです。芥川龍之介『羅生門』や中島敦『山月記』は、しばしば「定番教材」として批判の対象となってきましたが、それとて、現代文と古文、現代文と漢文をバランスよく学ばせたい、触れさせておきたい、という狙いが込められているわけです。

 中教審答申や『解説』は、高校国語科の授業は「読むこと」「講義調」に偏していると指摘していますが、高校の教室は、教員の声だけが響く空間ではないはずです。先生方は発問を工夫し、生徒たちの声を聞き、生徒たちと一緒に授業という時間を作り上げてきたし、いまも作り上げている。
 今回の新しい指導要領のプログラムは、こうした先生方のこれまでの実践について、いささか評価が低すぎるのではないかと思うのは、わたしだけでしょうか。

[4]生徒と教員の負担増
 関係者の方々はご存じと思いますが、国語科の学習指導要領が「話す・聞く」「書く」ことを強調するのは、今回が最初ではありません。遡れば、「国語表現Ⅰ」「国語総合」が(1年次の)選択科目として提示された、1999(平成11)年の指導要領から、一貫して主張されてきたことです。
 では、なぜ実現されてこなかったか。
 理由は単純です。このノートでも指摘したように、あまりにもリソースが不足しているからです。

 もし、今回の国語科のプログラムを文字通りに実践したいなら、教員の数をもっともっと増やすべきです。担当コマを減らし、生徒たちの提出するレポートや作品をていねいに読むだけの時間を確保すべきです。図書館施設や情報環境も、それなりに整備しなければなりません。実際に「話す」「書く」ことになる生徒たちの心身のゆとりを確保することも重要でしょう。

 ですが、ひとにおカネをかけることを極端に嫌がるいまの日本政府が、そうした政策を実施するとはとても思えない。
 とすれば、教員の負担が増えることは目に見えています。「新しい国語科」が文字通り実施されたら、国語の先生方の業務量がどれぐらい増えるか、真剣に考えたほうがよいとわたしは思います。

 また、この「ノート」では詳しく触れられませんでしたが、「主体的で能動的な学び」が生徒たちにもたらす疲労のことも、合わせて考えるべきと思います。たしかにアクティブ・ラーニングを大々的に導入すれば、授業中に居眠りをする生徒は減るかも知れません。しかし、逆から見れば、生徒たちは「居眠りをする時間さえ奪われている」とも言える。
 だいいち、人間はそういつも「主体的」「能動的」でいられるわけがありません。長時間ずっと、他者と協働し、建設的な意見を交換して、積極的に活動できるわけではありません。生徒たちは、学校で、毎日5時間から6時間の授業を受けるわけです。毎日毎日、授業時間のあいだずっと「アクティブでいなさい」というのは、あまりにも酷な要求ではないでしょうか?
 
 たしかに、学ぶことは「主体的」「能動的」な営みであるほうが望ましい。しかし、それを学校という制度の中で行うことの矛盾に、もっと自覚的であるべきだとわたしは思うのですが、いかがなものでしょうか。

#教育 #国語科 #新学習指導要領