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高等学校国語科が大きく変えられようとしています(終)

 最後に、今後の議論に向けて、2つのことを書いておきたいと思います。

 見てきたとおり、今回の新指導要領は、高校国語科の制度設計を大きく変えるものです。制度を変えることは、生徒の側にも教員の側にも、それなりの負担となってのしかかります。「それだけの負担を背負ってでも、その制度を変えるだけのメリットがあるのか?」――。現在、さまざまな問題が指摘されている「大学入学共通テスト」(新テスト)も同様ですが、制度をいじることによって最も影響を受けるのは、その変更によって翻弄される生徒たちに他なりません。

 このノートでも書いたように、わたし自身、いまの高校国語科の内容に問題がないとは思っていません。現状でも先生方の負担はかなり大きなものになっています。さらに言えば、他教科に比べて国語科は、そもそも何を学ぶ/教える時間なのか、という根本のところに曖昧さを抱えていることも事実です。この曖昧な時間は、言語で思考するさまざまな工夫や実践を可能にする寛容さとして読みかえることもできた一方で、教員が教材に託して自分の物語を語るだけ、そうでなければ入試問題演習をくり返すだけの、ひどく単調な時間へと転化する可能性もはらんでいたように思います。
 しかし、くり返しになりますが、もしそうした状況を変えようとするなら、「現在の高校国語科では何が学ばれ、何が学ばれていないのか」「現在の高校国語科は、どんな役割を担っているのか」「現在の高校国語科に問題があるとして、その問題はなぜ解消されないのか」等々を精査したうえで、次のステップに進むべきではないかと思うのです。

 ふたつめは、「研究者」に向けての問題提起です。
 自戒と自己批判を込めて書くのですが、これまでの日本文学研究は、初等・中等教育の国語科に対し、ひどく冷淡だったのではないか。もちろん、国語科の教科書編集に携わった方々は少なくないですし、わたしのように、教員としてのキャリアを高校から始めた方々も多くいるはずです。また、国語教科書や入試問題について、積極的に発言して来られた方も何人もおられます。
 
 しかし、それ以外の「研究者」は、どうだったでしょうか。
 中学や高校の国語科で何が問題となっていて、どんな教材が取り上げられ、どんな授業が展開されているのか、関心を寄せ続けて来たと言える方は、どれだけいるでしょうか。あるいは、いまこの段階に至っても、「それは文学研究の問題ではない」と思っておられる方も結構いるのではないか、というわたしの観察は間違っているでしょうか?

 いまや、大学に所属する人文系の「研究者」は、自分の専門を究めることだけに専念できる時代ではなくなっていると思っています。(たとえ不得手であったとしても――もちろんわたしだって得意ではありません)自らの専攻にかんする知見を共有できるオーディエンスとかかわり、読者を「創る」仕事にもかかわっていくことが求められている。
 あくまで経験的な言い方になりますが、最近はわたしの周囲でも、新しい国語科の中身に危機感を表明される方が増えてきたと感じています。
 もしわたしの拙い観察と分析が間違いでなければ、今回の学習指導要領がそのまま実施された場合、文学や文化の読者が減ることはあっても、増えることは決してない。
ならば、それぞれの場所で、それぞれのやり方で、やれることはやっておかなければならない局面ではないのか。残された時間は、もう多くないはずです。

 ここまで縷々述べてきましたが、わたし自身、大学で中高国語科の教員養成の授業を担当しているとはいえ、国語科教育を専門的に研究してきたわけではありません。ですから、この国の教育政策や言語政策を継続的に観察・分析されてきた方々からすれば、いろいろ洩れ落ちている部分も多くあるのではないかと思います。また、わたしの専攻は近現代文学なので、古典系の立場からも発言があってほしいとも思います。
 この長くて拙い文章が、新しい高校国語科とどう向き合うか、高校国語科をどんな時間として構想していくかを広く考えていく議論の叩き台になることを願わずにはおれません。

 高校国語科の問題に関心をもち、拙文を目に留めてくだささったみなさま、ほんとうにありがとうございました。

(この項終。2018年8月31日)

#教育 #国語科 #新学習指導要領