学術会議シンポジウムポスター

日本学術会議公開シンポジウム「国語教育の将来―新学習指導要領を問う」印象記②

*①からの続きです。

 5人目は文科省視学官の大滝さん「高等学校新学習指導要領国語科の目指す授業改善」。お忙しいお立場にもかかわらず、大部のパワーポイント資料を使って、文科省の立場からこの間の批判に応答する、というスタンスでのお話でした。とくにありがたかったのは、資料で「新科目についての正確でない理解」として、8項目の「正確な理解」を教示くださったこと。

・ 「言葉を「論理」と「文学」に分けることなどできる?」という批判には、「科目名は当該科目で重点的に育成する資質・能力を象徴的に表したものにすぎない」とのお答えが。象徴的?
・ 「高校国語から文学がなくなる?」という危惧には、必履修科目「言語文化」には文学が含まれるし、「選択科目については、学校や生徒による選択により、状況が変わってくるものの、高校国語から文学がなくなることは想定していない」とのこと。
・ 「文学は「感性・情緒の側面」にのみ押しやられる?」という疑問には、「「文学国語」は、「思考力・判断力・表現力等の「主として感性・情緒の側面」を踏まえているが、あくまでも他科目と比較しての重点を示している」という応答を示していただきました。

 大滝さんが挙げられていた新しい「国語科」への疑問・批判は、私じしんも折りに触れて発言してきた内容も含みます。その意味では、具体的な応答をいただいて、とてもありがたかったです。でも、また私の灰色のアタマの中にはさらなる疑問が。「正確な理解」とは、どんな「理解」なのでしょうか?
「正しく理解していただけるように」というセリフは政治家や官僚の方々の常套句ですが、この語り口が気になるのは、「理解」するのは受け手の側の責任である、という意識が見え隠れすることです。コミュニケーションは本来的に、やりとりを通じて双方が変化する可能性に開かれたものであるべき。大滝さんご自身も、ご著書のいくつかの言い回しに対する批判については、率直に反省の念を述べておられました。なかなかできることではないので、コミュニケーションができてよかったな、と思ったところでした。

 ですが、先の大滝さんのお答えには「象徴的」「主として」「重点」等、解釈の揺れ幅の大きな語句が含まれる。これでは「正しい理解」は困難です。質疑の際に紅野謙介さんが指摘した通り、新しい「国語科」は解釈者側の「忖度」を構造化するような曖昧さをあちこちに残したまま見切り発車してしまった。安藤さんが討論の中で「論理」と「文学」を区分した背景にある理念について質問され、フロアからはこうした曖昧な制度設計に対する文科省の責任を問う声があがったのは、致し方のないことだったと私は思います。この混乱の負担、不安は何よりも現在の高校生たちを直撃するわけですから。

 日本学術会議は「科学者の国会」とも呼ばれるそうです。今回私は初めて主催企画に参加しましたが、政府から独立した研究者の機関が、この国の学問の問題として「国語科」を取り上げたことにはたいへん大きな意義があると思います。「閉会の辞」の吉田和彦さんのお話もとても印象的でした。まずは、こうした企画を立案・準備くださった関係の先生方に心からのお礼を。そして、この話題、もっと日本文学研究者は積極的に発言してもらいたいと思います。新しい「国語科」の問題、もっともっと声が多様に拡がって欲しいと心から願っています。

 ひとつ書き落としが。阿部公彦さんも言及しておられましたが、質疑の際には大学院生の方、高校生の方の真摯で率直な文科省批判が語られ、会場の空気がグッと引き締まりました。彼女ら彼らの真剣な問題提起が、あの会場だけではなく「新しい国語科」 の関係者にも届くことを願わずにはおれません。こんかいはお立場上、大滝さんが批判の矢面に立つかたちになりました。ですが、ほんとうの問題は構造的です。共通テストも英語民間試験も、なぜこんなタイトなスケジュールで、無理筋の「改悪」が強行されてしまうのか。この間の教育政策決定のありよう全体を批判的に検証する必要があるとも考えます。 [この項、了]