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高等学校国語科が大きく変えられようとしています(8)

 各方面からの圧力を意識し忖度して、どうにかそれにすべて応えようとした結果、さまざまな矛盾と混乱を抱えた設計図ができあがってしまう――。こうした今回の新指導要領がはらむ矛盾は、現行の「現代文B」に代わる選択科目「論理国語」(4単位)と「文学国語」(4単位)にも大きな影を落としています。

 おそらく普通科の高校では、高2・高3の2年間で学ばれるだろう選択科目「論理国語」(それにしても不思議な名称です。果たして「論理」を欠いた言語があるのでしょうか?)は、「現代の国語」と並んで、新しい国語の目玉として作られた科目と言えるでしょう。
 『解説』は、この科目の性格を、「共通必履修科目である「現代の国語」及び「言語文化」により育成された資質・能力を基盤とし、主として「思考力・判断力・表現力等」の創造的・論理的思考の側面の力を育成する科目として、実社会において必要となる、論理的に書いたり批判的に読んだりする資質・能力の育成を重視」するものと規定し、次のように述べています。

 この科目では、実社会や学術的な学習の基礎に関する事柄について、根拠や論拠の吟味を重ねたり文章全体の論理の明晰さを確かめたりして論理的な文章や実用的な文章を書く指導事項、資料との関係を把握したり、主張を支える根拠や結論を導く論拠を批判的に検討したりして論理的な文章や実用的な文章を読む指導事項を設けるとともに、課題を自ら設定して探求する指導事項を設けている。(『解説』145ページ)

 引用した部分の中に、学習内容として「学術的な学習の基礎に関する事柄」という一節があります。『解説』では、その例として、「定量・定性的」「蓋然性」「変数」「パラダイム」といった比較的一般的な学術の用語に加え、「心理学における「学習」、言語学における「談話」のように、ある分野において特定の意味で使われる語句」の意味・用法を学ぶことも含めています(『解説』149ページ)。
 
 ですが、これ自体は決して目新しいものではありません。すでにこのノート「3」で述べたように、現在の高校国語科は、自然科学まで含めた諸学の基礎的な内容をカバーしているからです。現行の科目「現代文B」との違いは、「課題を自ら設定して探求する」こと、つまりは大学でのレポート作成のような活動への取り組みが強化されたことでしょうか。
 「論理国語」が想定する授業時間数の配分は、以下のようなものです。
 
   書くこと  50~60単位時間程度
   読むこと  80~90単位時間程度

 つまり、全体の4割ほどの授業時間を「書く」ことに充当せよ、というわけです。確かに、高校国語科で「レポートの書き方」を教えるべきだ、という意見は以前からありました。大学入試対策をそれほど意識しなくてよい付属校・付設校などでは、科目「国語表現」の枠組みで、そうした授業が行われています。
 大学教員の立場から言えば、高校段階で「レポート・論文の書き方」が定着できていたほうがよいに決まっています。問題は、それができる環境があるのか、ということです。

 少し想像してみます。
 例えば、「論理国語」を5クラス担当したとします(週2回の授業と考えれば、これで10コマです)。1クラス35人としても、その教員は、175人分のレポートを読まなければならない。いまの高校の先生方には、多い方では一人20コマぐらい担当している方もいるはずです。ほとんと空き時間はなく、放課後にはクラブ活動もある。クラス担任としての業務に加え、校務にかかわる各種書類の作成も落とせない――。多忙を極めるいまの高校の先生方に、日常的にそれらを添削し、採点し、評価するだけの心身のゆとりが、果たしてあるのでしょうか?
 
 「論理国語」の問題は他にもあります。
 まず指摘すべきは、「現代の国語」と同様に、教材として扱う文章に制約がかけられている、ということでしょう。「近代以降の論理的な文章」のうち、この科目が取り上げるのは「成立して時間が経過し文化的な価値が高まったもの」ではなく、「現代の社会生活に必要とされるもの」に限られる。
 ですが、この二つが排他的とされることが、そもそもおかしいわけです。
 「成立して時間が経過」してもなお、「現代の社会生活に必要とされる」文章だって、たくさんあります。有名な教科書教材で言えば、夏目漱石の「現代日本の開化」や、丸山真男「「である」ことと「する」こと」などはどうでしょう。過去に書かれた文章で、文化的な価値もあり、しかも「現代の社会生活」に重要な問いを投げかけている――これらはまさに、そのような文章だとわたしは思います。
 そもそも、「成立して時間が経過し、文化的な価値が高まった」文章がもたらす知見のことを、ひとは「教養」と呼ぶわけです。では、「現代の国語」だけではなく、「論理国語」にも、そのような「教養」の居場所はないのでしょうか?

 こうした現在性・実用性への過度な傾斜は、「論理国語」が想定する文章の読み方にも、独特のニュアンスをもたらしています。

 論理的な文章や実用的な文章については、その目的が言語表現としてどのように表現されているか、その言語表現が社会生活などにおける目的の達成のために実際にどのように機能することが期待されているか、などの視点に立って読んでいくことが求められている。(『解説』177ページ)

 たいへん抽象的な言いまわしなのでわかりにくくなっていますが、要するに、その文章の目的やTPOに合わせて、しかるべき形式と内容が踏まえられているかということです。言い換えれば、あらかじめ想定されているフォーマットやテンプレートに忠実に書けているか、その枠組みの中で分かりやすく書けているかが問題となる。場面ごとのお約束にあわせた効果的な言いまわしになっているか、効率的な文章になっているかが評価・判断の基準となるわけです。

 『解説』は、「論理国語」が想定している活動のうち、文章を「批評する」ことを、「文章の内容や形式など、対象とするものの特性や価値などについて、論じ、評価すること」だと説明しています(173ページ)。
 でも、わたしの感覚では、これはかなり特殊な定義です。「批評」とは、その文章の内容だけにとどまらず、その文章を支える思考の形式や発想の問題点まで含め、批判的に読解し、評価する営みのことではないか。何が書いてあるか、だけではなく、なぜそれが書かれるのか、どのような論理の枠組みに支えられているか、どんなイデオロギー的な問題があるかを総合的に検証し、検討する営みが「批評」ではないのか。
 
 たとえば、この文章でわたしは、新しい指導要領の文言を批判的に読んでいるつもりです。ですが、どうやら「論理国語」が想定する「批判的な読み」には、こうした実践は含まれないようなのです。

(続く)

#教育 #国語科 #新学習指導要領