学術会議シンポジウムポスター

日本学術会議公開シンポジウム「国語教育の将来―新学習指導要領を問う」印象記①

*twiter(https://twitter.com/nori_gomibuchi)に連投した記事をまとめました。こちらの方が読みやすいと思いますので、ご参照ください。
*より詳細な「まとめ」は、横浜国立大学国語教育研究会のブログに掲げられています。合わせてご確認いただければ。
https://ynukokugo.blogspot.com/2019/08/blog-post_2.html


 昨日は酷暑の中、乃木坂の日本学術会議講堂での公開シンポジウム「国語教育の将来—新学習指導要領を問う」に出かけてきました。すでに記事も出ているようですが、以下、私なりのまとめを書きます。例によって長文、かつ私見が混じっていますので、その点はご留意のほどを。

 登壇者は安藤宏さん、三宅晶子さん、渡部泰明さん、大森秀治さん、大滝一登さんという豪華メンバー。重厚な雰囲気の講堂には250人ほどが参集、遠方からの方々も多かったようです。この間の「国語科」イベント同様の盛況でした。

 トップバッターは安藤さん「新学習指導要領における「文学」概念を問う」。落ちついた口調ながら、「国語科」高等学校新学習指導要領が人文学研究の将来にも影を落としかねないという強い危機意識から、「文学」と「論理」を対にするかのような科目構成への批判を軸に議論を展開されました。とくに印象的だったのは、今回の科目構成で教科書検定が行われると、〈これは文学か、非文学か〉〈これは論理国語の教材か、文学国語の教材か〉という形で、結果的に国家機関が「文学」の範囲を定義することになりかねない、というご指摘。〈文学とは何か〉という定義を文科省が決めてしまう。。。

 続いて三宅さん「古典教育の危機を救う」。能の研究者ではあるが、国立大学教育学部で働いたご自身の経験から、学生の「古典嫌い」に問題意識を持ち始めたこと、その意味で、現代文・古文・漢文の壁を無くした新科目「言語文化」に期待をかけていることを語られました。報告の中では、ご自身や卒業生の実践例を紹介しながら、文法偏重・暗記中心の従来の高校「古典」教育を問題視するとともに、「話す・聞く」「書く」「読む」だけではなく、「見ること」も「国語科」の教育内容に取り入れるべきではないか、と図像資料を用いた授業の可能性にも言及されました。

(ですが、古典文法や現代語訳の必要性を疑うような発言に対しては、後半のディスカッションの時間に、フロアから厳しい批判やコメントが出ていたことを申し添えておきます)

 3人目は渡部さん「なぜ、そしてどう古典を学ぶのか」。渡部さんは今回の新学習指導要領作成にも関係したお立場ということでしたが、開口一番、「新指導要領には是々非々の立場で」と発言。もう少し討論の時間があれば、「是」とするところ「非」とするところ、ぜひうかがいたかったです。
ご報告は、「なぜ古典を学ぶのか?」という問いかけに、〈情理を兼ね備えた古典の文章を学ぶことで、異なる他者と共に生きる寛容さを身につけるため〉という答えを示すものでした。日本の古典は基本的に参加型の文化である、ALはことばの「強者」に有利な授業ではないか等、印象的なご発言も。 最後に「新指導要領では、必履修科目を、「現代の国語」、「言語文化」各2単位に分割している。この二つを統合して、「総合国語」4単位とすることを提案したい」との問題提起がなされました。この問題提起は前向きに受け止めるべきと感じています。

 4人目は大森さん「高校における「国語」という教科の特性とは何か」。ことし3月までの灘高勤務の経験から、〈そもそも国語科は多くを引き受け過ぎではないか?〉という挑発的な(?)問いを投げかけ、ことばの力は「国語科」だけが育てるわけではない、各教科がそれぞれ思考力判断力表現力を育てていくべき、との持論を展開されました。「役に立つ」という意識に囚われすぎることへの問題提起も。「実用的な文章」である契約書を読めるように、という声があるが、果たして我々は本当に契約書や約款を読んでいるのか、むしろ読みにくいように、読まないように制度を設計していないか。だとすれば、問題は「読解力」ではなく、そうした社会を作ってきた側にあるのでは? こうした大森さんのご指摘は、社会の問題を「国語科」の中だけで解決しようとする志向性のあやうさを鋭く突いたものだったと思います。(「2」に続く)