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高等学校国語科が大きく変えられようとしています(6)

 さて、ずいぶん遠回りをしてしまいましたが、ようやく高校国語科の新しい中身を批判的に検討する土台を整えることができました。今回示された国語科の科目編成は、(ア)全体的な方向性としてはPISA対応に強く引っ張られる一方で、(イ)そこで取り落とされたものを無理に取り繕おうとした結果、(ウ)これまで高校国語科が積み上げてきた知見や蓄積を空洞化・形骸化させかねないものとなっているように思うからです。

 そのことは、新設された必履修科目「現代の国語」(2単位)と「言語文化」(2単位)の切り分け方に象徴的にあらわれています。これは、現行の必履修科目である「国語総合」(4単位)を、いわゆる「現代文」と「古典」とに分割した科目ではありません。また、「現代の国語」という名称は、1960年の学習指導要領改訂時に登場した科目「現代国語」と名前はそっくりですが、内容はまったく違っています(注4)。

(注4)坂東智子氏の論文「高等学校における「現代国語」創設の意義」(『山口大学教育学部研究論叢』64巻1号、2015年1月)は、科目「現代国語」が、(受験対策等の理由で)実質的に古文の学習に特化してしまっていた従来の高校国語科に、現代文的な内容を本格的に導入する目的で創設されたと論じています。

 『高等学校学習指導要領解説 国語編』(2018年7月。以下『解説』と略します)は、「現代の国語」を、「実社会における国語による諸活動に必要な資質・能力の育成に主眼を置」く科目だと定義しつつ、その「ねらい」を、次のようにまとめています。

 小学校及び中学校国語と密接に関連し、その内容を発展させ、総合的な言語能力を育成する科目として、選択科目や他の教科・科目等の学習の基盤、とりわけ言語活動の充実に資する国語の資質・能力、社会人として生活するために必要な国語の資質・能力の基礎を確実に身につけることをねらいとしている。(『解説』69ページ)

 では、この「ねらい」に向けて、いったいどんなプログラムが用意されるのか。この科目の顕著な特徴は2つあります。ひとつは「話す・聞く」「書く」活動の重視、もうひとつは「実用的な文章」の積極的な教材化という方向性です。

 順番に見ていきましょう。「現代の国語」では、言葉にかかわる4つの技能(話す、聞く、書く、読む)に、それぞれ次の授業時間数を割り当てるように求めています。

   話すこと・聞くこと  20~30単位時間程度 
   書くこと       30~40単位時間程度
   読むこと       10~20単位時間程度
 
 見られる通り、明らかにインプットよりもアウトプットを重視した配分です。高校での1単位は35単位時間(=つまり、35回の授業ということです)と規定されているので、この配分に従うなら、「読むこと」に割り当てられるのは最大でも20/70、要するに3割以下の時間数となる。こうした要請が、「読解力」と並んで「表現力」に課題があるとされたPISA調査の結果を意識したものであることは自明です。

 もうひとつの特徴は、この科目が取り上げる教材やテーマにかかわります。「現代の国語」は、内容的には「現代の社会生活に必要とされる論理的な文章及び実用的な文章を扱う」と記されています。それはいったい、どのようなものなのか。

 論理的な文章とは、説明文、論説文や解説文、評論文、意見文や批評文などのことである。現代の社会生活に必要とされる論理的な文章とは、これらのうち、これまで読み継がれてきた文化的な価値の高い文章ではなく、主として、現代の社会生活に関するテーマを取り上げていたり、現代の社会生活に必要な論理の展開が工夫されていたりするものなどを指している。
 一方、実用的な文章とは、一般的には、実社会において、具体的な何かの目的やねらいを達するために書かれた文章のことであり、新聞や広報誌など報道や広報の文章、案内、紹介、連絡、依頼などの文章や手紙のほか、会議や裁判などの記録、報告書、説明書、企画書、提案書などの実務的な文章、法令文、キャッチフレーズ、宣伝の文章などがある。また、インターネット上の様々な文章や電子メールの多くも、実務的な文章の一種と考えることができる。〔略〕
 論理的な文章も実用的な文章も、事実に基づき虚構性を拝したノンフィクション(小説、物語、詩、短歌、俳句などの文学作品を除いた、いわゆる非文学)の文章である。(『解説』107ページ)

 文学が好きな方、文学に心を寄せる方だけでなく、広く人文学や文化を大切にしたいと考えている方々は、この定義には真剣に怒るべきではないかとわたしは思います。つまりここでは、「これまで読み継がれてきた文化的な価値が高い文章」は、「現代の社会生活に必要とされる論理的な文章ではない」と断定されているわけですから。まるで、「現代の社会生活」には、「文化的な価値」は必要ない、と言われているかのようです。
 
 「実用的な文章」の定義も、なかなか振るっています。文部科学省の署名が付された公文書の中で、フィクション=文学作品は、論理的でも実用的でもない文章として定義されてしまったのです。短歌や俳句を考えれば、文学は立派なコミュニケーション・ツールとしての「実用」性を持っています。実際に、文学の言葉に勇気づけられたり、救われたりした経験がある方も多いはずです。一部の政治家の方々は、明治維新の元勲に自分を重ねて「改革者」アピールに熱心ですが、それは例えば司馬遼太郎の小説に学んでいるわけですから、それもある種の「実用」性でしょう。そもそも文学は、フィクションというかたちで、自分ではない他者の生を生きることができるメディアです。文学を通じて人間の感性と想像力を鍛えることは、「実用」性とは言わないのでしょうか?

 ですが、ここで規定された「実用的文章」の中身を見ると、「実用」性の意味が、「実社会」というよりは、ほとんど実際の会社=企業の中で使われるような類の文章へと切り縮められてしまっています。しかも、ここには引用しませんでしたが、「実用的文章」の中には、図表や写真、グラフなどの視覚資料と組み合わされているものを含む、というわけですから、これも明らかにPISA対応の一環でしょう。「現代の国語」という科目が、いったいどちらの方向を向いて作られた科目であるかは、こうした例に徴しても明白です。

(続く)

#教育 #国語科 #新学習指導要領