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"置かれた場所で咲きなさい" という言葉。


恥ずかしながら、先週のとある打合せでこの言葉を知った。

今の自分にとても突き刺さった言葉で、この数日で少なからず心に変化があったため、溢れた感情を手付かずのまま綴ることにする。

*いつもの様に、完全に自分に向けた備忘録であるが、同じ境遇に陥っている人がいたら1ミリでも前進になれば嬉しい。


"期待しない" ことの難しさ

自分をとりまく様々なコミュニティ(人間関係)において、自分はよく悩む。

悩むたびに、紙に書き出すなり何なりしているのだが、毎回決まって自分の思うような運びにならないことに軽い失望感なりを感じていたことが明らかになる。

つまり、人や環境に、何かを期待してしまっていた事実が、そこで浮き彫りになるのだ。


最近(ここ1年ぐらい?)でネット上でよく見かける言葉。

期待せず、信じる。

ここでの『信じる』を一言でいうと、

見返りを求めず、何があっても受け入れると一方的に腹をくくること。

と解釈している。

難しい。。

ある時点で、心の中で「この人のことは何があっても受け入れるんだ!!」と強く唱えたところで、自分の身体はそんなにやすやすと呪文にしたがってくれない。

自分はそうだ。

ことあるたびにしっかりと落ち込む。

その度に、

自分の身の回り全てに対して自分ゴトとしているか?

自分に責任を持って生きてるか?

毎回そんな抽象的な言葉を心で唱えては、自分を全力で鼓舞していたりもする。

言ってるが、正直あまりピンとこない。

誰も自分の人生の責任はとってくれない。

ただ、それだけは事実だ。


人のことは考えない

誤解を招く言い方だが、心に浮かんだ言葉をそのまま綴ることにした。

例えば、人に何か頼まれたりした時に、"その期待に答えるために頑張ろう" などと思うと、その瞬間100%の自分ゴトではなくなる。

頼まれて引き受けた時点で、それは100%自分のコトなのだ。

自分以外は他人。

他人は自分の人生に忙しいのだ。

そして他人から見たら、自分も他人である。


"人に期待せず、信じる"

この短いフレーズは、心で唱えて実践できる様な代物ではない、と自分は感じる。

人のことを考えずに、自分自身のコトに100%集中することで、結果的に人を信じている  といったところではないだろうか。

だいぶまわりくどくなったが、人や環境に期待して悩みたくなければ、目の前の人ではなく、コトに全力投球する。

これに尽きるのかもしれない、と思う今日この頃である。

終始ドライな書き方をしているものの、今の自分に携わってくれている全ての人たち、会社のメンバー、アドレスホッピングで出会った沢山の人たち、家族。感謝しきれないぐらい感謝している。

そしてみんな思い描く幸せを掴んでほしい、と願っている。いや、この段階では、そう願えるようになれたらいいな、と思っているのかもしれない。わからない。

自分と他人の幸せを本気で願うのなら、自分の目の前に立ちはだかるコトを一生懸命やりきること。

そこで初めて、血の通った願いになるのでは。

そんなことを思った。

置かれた場所で咲きなさい


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