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33年前に雑誌掲載された話

 最近、webや紙メディアに寄稿することが日常になってきました。小売へのIT活用、事業運営の仕方やマーケティングに関する依頼が多いです。1986年16歳で初掲載されたのは、PC&ゲーム雑誌に掲載されたゲームのプログラムでした。

というプログラムで、インベ◯ダー風ゲームを作ったのです。MSXエミュレーターをお持ちの方は打ち込めば動くかも。

NEC PC9801が憧れ

 当時、中高一貫教育の私立獨協学園に通っていました。友人達は中学から人気のNEC PC9801,9001,8801シリーズ,富士通FM7,Sharp X1などでウィザードリー、デゼニランドなどのゲームをしていましたが、pcとモニタで20〜40万円する時代ですので、私はMicrosoftが共通規格で出したMSX5万円を古いTVに繋いで、ゲームもそうそう買えないので雑誌のプログラムソースを自分で入力して遊んでいたわけです。
 そういうユーザーはそれなりの数がいて(解像度の高いpcモニタでなく)TVの一画面表示に収まる超短プログラムが人気で、掲載競争率も高かったと記憶しています。プログラム雑誌といえばベーマガことマイコンBASICマガジンですが、あれに載るものよりもズッと短いのです。
 なにしろMSX初期ユーザーの多くは、フロッピーディスク(死語ですが当時高嶺の花でした)など買えず、カセットテープに「ピー!ガー」と録音して再生することでPCにプログラムを読み込んでいたので、ファミコンに近いレベルのゲームだと遊び始めるまで10分以上かかりましたので、プログラムは短いほど喜ばれたわけです。

ゲームを作る人になりたかった中高生時代

↓掲載誌概要。Wiki圧縮しても長いので飛ばし読みで‥
テクノポリスは1982年から1994年まで徳間書店(後に徳間書店インターメディア)より発行されていたパソコンゲーム雑誌。通称はテクポリ
…vol.1 1982年8月 創刊号では、雑誌を表す売り文句を「マイコン入門雑誌」とし、パーソナルコンピューターを核にしながらも、新技術全般、またSF小説まで扱う雑誌であったvol.5…頃までは、科学絡みの記事が多く…「ベェシッ君」というモンキーパンチの漫画も連載されたが、それらは整理ないし終了して、より若者向けのパソコン専門誌としての色彩を強めてゆき…各社から発売されていたパソコンの最新情報や、読者投稿のCGプログラム・ゲームプログラムなどを数多く掲載するようになっていった。黎明期のパソコンにおいては利用者のほとんどはプログラマであり、機械語プログラムの入門記事など硬派な記事も掲載していた。
1984年1月号から、売り文句を「ライトな時代でも遊べるパソコン入門αマガジン」と変え、徐々に市販のゲームなどを中心とした娯楽寄りの姿勢を強めていく。
※Wikipedia抜粋

 この後、ファミコン(ちなみに私は角ボタン、丸ボタンの2バージョンまだ持っています)による家庭用ゲーム機の普及でパソコンゲーム自体は低迷し、読者プログラム投稿中心のプログラムポシェットやMSXFANに分化し、テクポリはアダルトゲーム系の雑誌になっていきました。私はこの後2年ほどMSXFANの読者でした。

 私はゲームをやることはもちろん、プログラムやデザイン(と言っても当時はドット絵)を創ることも楽しくて、中学高校時代は漠然とゲームを創る人になりたいと思っていました。 今の私を知っている人は「えっ!?」と思うかもしれません。

 「なぜその道に進まずに薬剤師になったのか?」「薬剤師が何でカンファレンスやメディアでIT活用やマーケティングの話してるの?」という後者に関しては断片的に話をしているので各Webメディアを読めばわかります。例えば↓

「なぜその道に進まずに薬剤師になったのか?」に戻ります。一言でいうと「母に反対されたから」です。
 これで終わるとただのマザコンなので、補足します。私は小2の時に父が肺癌で亡くなり、以降母1人子1人の母子家庭でした(その後壮絶にいろいろあるのですが公開できるような話ではないので端折ります)。高3時、進路についてプログラマー(今表現するならゲームクリエイター)になりたいと母に言いました。

 その時、店を経営しながら女手で育ててきた気丈な母が泣き出したのです。「私が頑張ってきたのは、あなたを大学に行かせて立派な社会人にするためだ。」と。

 母の泣き顔を見たのは、後にも先にもその時だけでした。当時は大学にコンピューターサイエンスや情報処理系の学部はありませんでした。ようやく情報処理の専門学校が出現してきた時代ですので、高校卒業したらゲーム会社に就職したいと言ったのです。
 成績は悪くなかったですが、受験勉強は最低限の手間で理系に行きたい。というわけでまずは附属の大学を検討しますが、文系と医学部しかありません。調べると(って高3まで調べてないって‥)薬学部が英数理の3科目で受験出来ることがわかりました。化学は学年指折りに得意でしたので英語だけ受験勉強すれば受かるというわけで、不純な動機で薬学部を受験しました。

置かれた場所で…

 流されて達した状況ですが、いる場所で頑張れば、人生何かしら得るものがあるわけです。
・薬学に興味を持った結果、第1回のように薬剤師として被災地支援に行ったり、
・ドラッグストア(小売業)で働いた結果、商売が楽しくて自分で経営したり、
・自分の店が上手く行かなかった結果、調剤をマスターしたり、他店舗・大人数をマネジメントするスキルを身につけたり、
・調剤事業部から異動した結果、一部上場企業の管理業務やグループ統合、上場企業間アライアンスを実行したり、
・EC子会社社長になった結果、実店舗にITとマーケティングを融合させるようになったわけです。

 当時、居住していた大田区と隣の世田谷区に50店強出店していたセイジョー(後のココカラファイン販社)に就職して2年後に母は亡くなりました。給与が良くて人のツテもある製薬会社からのお誘いに乗るのではなく、知らない小売業のセイジョーを選んだのも転勤がない会社を選んだからです。就職するまでドラッグストアという業態を知りませんでした。マツキヨさんがTVCMをかけ始める直前の話です。

 特に会社・店舗を自営していた時代は文字通り死ぬほど大変なこともありましたが、そういう時期が自分の血肉になっていると思います。皆さんも「今自分が望んでいない状況になった」と投げやりにならずに吸収できることを吸収して成長すると良いことが起こるかもしれません。

 私は結果として、憧れのpc9801は就職後最初のPC(すでにWindows3.1でした)として購入しましたし、企業の肩書という後ろ盾なしでもNECさんの講演や対談に呼ばれたりするようになりました。

  まったく失敗せずに最短で思った通りの人生になる方も世の中にはいるかもしれませんが、失敗(望ましくない状態)を後悔して前に進まないのはもったいないですよ。 
 才能と状況は一人一人違います。が、人生有限なのは共通です。

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