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この人たちを覚えていますか 誰かのために汗を流して被災地を支えた「ヒーロー」その後の話

「…で、その人は誰を亡くされたの?」

デスクは私を見ずに、企画の提案内容が書かれた紙にことばを落とした。

ひどいことばだと思うかもしれない。誤解が生まれないよう説明を加えると(説明したところで誤解しか生まないのだけど)そのデスクも、決して亡くなった人がいるかどうかで提案を見ているわけではない。ただ、、

報道カメラマンとして災害現場を見てきた私たち3人はあるときそろって、デスクが却下しそうな「地味な話」の提案を出した。自分より他人のことを優先して、被災地を支えてきた人たちの話。

災害現場にはいつも多くの「名も無きヒーロー」たちがいる。
そしてヒーローものにはいつも「続き」がある。
 

1人目のヒーローはひたすら自転車を修理し続けた

 
「お金はいいから、いいから」

そう言ってお客さんからの代金は受け取らずに膨大な数の自転車を無償で修理し続ける男性。

2011年3月19日、宮城県石巻市でNHKが撮影した映像には、自転車を修理し続ける男性が映っていた。

被災から1週間あまり、無精ひげを伸ばしたままで忙しそうに動き回っていた。

朝の6時から店を開いて、1日40台ほどの自転車を無償で直しているという。

当時の映像を見たカメラマンの私は「すごいな、この人…」という気持ちとともに、「自分のことで精いっぱいなはずなのに、それを後回しにしてどうして人のために動けるのか」という疑問もあった。彼に会って聞きたいという思いで石巻市に向かった。

ヒーローは町の壊滅から2日後に店を再開した

2月初旬に自転車店を訪れた私を店主の平塚功さんは、「寒いから中に入りな」と笑顔で迎えてくれた。
12年前の映像では厳しい表情だったが、実際にお会いすると穏やかな表情と若々しさが印象的だった。学校に向かう子どもたちに「おはよーさん」と笑顔で声をかける様子からも人柄がうかがえた。

津波で壊滅的な被害を受けた石巻市では車は流され、ガソリンも不足していたため、被災直後の移動手段は主に自転車だった。
当時の映像には流された車や家財道具が散乱する道路を、自転車で行き来する人たちが映っている。しかし道路にはガラスやくぎが散乱していて、自転車はいつパンクしてもおかしくない状況だった。

平塚さんの店舗を兼ねた自宅は海からは2キロほど離れたところにあるが、それでも1メートルほどの高さの津波が押し寄せた。

商品の自転車は20台ほど水につかって、海水をかぶった工具は使い物にならなくなった。それでも車に残っていた工具を引っ張り出して、被災から2日後には店を再開した。

「震災直後は他の自転車屋さんはほとんど閉まっていたんだよね。ここから車で30分以上かかる女川とか雄勝からも、直してくれって自転車をひいてきたお客さんもいたね。11回パンクを直した人もいるよ。あのころは困ったお客さんを助けてあげたいという気持ちで動いていただけだよね」
(平塚功さん)

平塚さんは当時のことを思い出しながらぽつりぽつりと話してくれた。代金をとらなかったのは、なんとか直してほしいと自転車を持ち込むお客さんの姿を見て、お金のことなど二の次だったからという。

「生きている人が大事だからね」

当時、修理をしながら平塚さんには気がかりがあった。隣の女川町で暮らす親族と連絡が取れておらず、当時の映像にはインタビュー中にこらえきれず涙する平塚さんがいた。

「あのころは修理することで頭がいっぱいだったけれど、仕事が終わって家に戻るとみんなのことを思い出していました。亡くなったのはいとこたち、あわせて8人でそのうち4人は今でも見つかったって話は聞かないですね」(平塚功さん)

自分自身も被災して親族の無事を祈りながら、目の前の困っている人たちのために動き続けられたのはどうしてなんでしょうか。
「なんでだろうね。私もよく分からないんだけど、昔からそういう感じだからね」

平塚さんは少し黙り込んだあとでぼそっとこう答えた。

「何を言ったって生きている人が大事だから、とにかく前向きになっていたんだと思います」

ヒーローはひとりじゃなかった

震災直後から無償で自転車修理を続けた平塚さん。その奮闘ぶりを見て近所の人たちも少しずつ手伝いに加わるようになった。ひとりふたりと仲間が増えて、最終的には6人ほどでタイヤ修理や交換を行うようになったという。平塚さんは仲間とともにおよそ1か月間、代金を取らずに、毎日持ち込まれる自転車の修理を続けた。

あれから12年。平塚さんは今も同じ場所で店を続けている。店の柱には、あの日襲った津波と同じ1メールの高さのところに日付が記されていた。

「ここは集会所なんだよ」と言っていたとおり、午後3時になると約束でもしていたかのように、近所の人が集まってきた。

家庭菜園の野菜に使う肥料の話。地元の野球チームの話。日常のささいな出来事を楽しそうに話している。平塚さんはどちらかと言えばいじられ役で、「商売っ気がないんだから」などと笑われても、うれしそうに聞いている。

輪の中に、当時平塚さんの店の手伝いをした人がいた。30年以上のつきあいがある小野寺喜一郎さんは、震災後に娘のところに避難していたが、自宅の様子を見るために戻ってきた。

そのとき平塚さんの店の前に100台以上の自転車が並んでいるのを見て、自分にも何か出来ることがあればと手伝い始めたそうだ。

小野寺喜一郎さん

「自転車を持ってくるお客さんはひっきりなしだったけど、平塚さんは相手をする暇がなかったから、私が自転車の受け取り役をしていました。自分は修理はできなかったけど、困っている人のために動いている平塚さんを見ていたら手伝おうって気持ちが湧いてきたね」(小野寺喜一郎さん)

平塚さんの思いが伝わって支えあい助け合う場が、12年前のこの場所にあった。

ヒーローの花はいつか咲けばいい

近所の人たちが帰ったあと、12年前と今とで変わったことを平塚さんに尋ねてみた。

少し考えてから
「変わったことはないかもしれないね。変わるつもりもないしね」

そのあと笑いながらこう話してくれた。

「わたし、雑草っていうことばが好きなんですよ。いつも傾いていて、踏まれても抜かれても出てきますよね。それが好きなんですよ。雑草って嫌われるけど、命はあるし花も咲くからね。わたしの花はまだ咲かないけど、いつか咲けばいい話だから、それまで取っておくわけ」(平塚功さん)

震災直後の困難な状況でも前を向き続けてきた平塚さんを体現することばだと感じながら、誰かのために動き続けたその優しさは、もうとっくにすてきな花となって咲いているのにと、思わずにはいられなかった。

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2人目のヒーローは子どもたちのアイドルだった

その写真との出会いは”ふい“に来た。その日は夜のニュースに向けて、岩手県警が主催する写真展を取材していた。
 
震災当時の警察の活動を伝える57枚の写真の中で、会場の廊下の奥にあった写真に目がとまった。災害派遣で来た1人の警察官と姉妹が笑顔で写っていた。

写真提供 畠山茂樹さん

周りに展示されていた、津波に襲われた町の惨状や、行方不明者の捜索にあたる警察官などの写真の中で、その写真だけが笑顔だった。
 
「いい写真だな」と思って撮影した。夜のニュースには使われなかったけど、その笑顔の理由が知りたくなって、写っていた3人それぞれの12年をたどった。

笑顔の理由を探して花巻へ

写真に写っていた姉妹は岩手県の内陸にある花巻市に住んでいること、警察官は当時岡山県警から行方不明者の捜索のために派遣されていた機動隊員だったことがわかった。
 
岡山県警から当時派遣された59人の隊員は、沿岸の陸前高田市へ捜索に入るために、比較的被害の少なかった花巻市内に宿泊の拠点を置いていた。花巻から陸前高田まで片道約2時間を大型バスで毎日往復する途中で、道沿いの住民たちと次第に交流が生まれていった。その中で撮られた1枚だという。
 
姉の畠山彩音さんと妹の心花さんは、笑顔で迎えてくれた。
彩音さんは看護学部に通う大学2年生の20歳、心花さんは助産師を目指して大学受験を控える高校3年生の18歳。
 
彩音さんたちの部屋で、またあの写真に目がとまった。
 
推しのアイドルの写真に並んできれいに飾られていた写真を見ながら彩音さんは話した。
「私にとってあの出来事は、芸能人からファンサービスをもらうみたいな感じでしたから」

畠山彩音さん

 陸前高田へと続く道路は、姉妹の部屋から見渡すことができた。取材中も車の通る音が部屋に響くほどの距離だ。彩音さんと心花さんは口をそろえて、「震災で怖かったり、不安だったりした中で唯一楽しかった出来事で、毎日が遠足の前日みたいにワクワクしていたんです」と答えてくれた。
 
当時の写真で、姉妹が両手でしっかり持っていたプラカード。

「がんばれ警察官さん」「気をつけて、いってらっしゃい」と書かれていた。 

「最初は警察だから敬礼とかして、はしゃいでいたんです。そこから、ありがとうとかがんばれとか言うようになって、でも家の前を通るのって一瞬じゃないですか。一瞬だからもしかしたら私たちの声が聞こえないかもと思って、文字だったらみんなにきちんと届くかなって。家族みんなで話し合ってプラカードを作りました」(妹の心花さん)

畠山心花さん

どうしてそこまで気持ちを伝えたかったのか。
姉妹の家の隣には駐在所があって、警察官はふだんから町の“優しいおまわりさん”だった。でもテレビに映された震災の映像を通じてその印象は少しずつ変わっていく。
 
忘れられない光景があった。

「がれきがたくさん積み重なって、そこで家族を探している人たちの映像が頭に残っていて、その中で警察の方々が1列に並んで、棒みたいなもので地面を掘り起こしていた様子を覚えています」(姉の彩音さん)

当時小学3年生と1年生だった姉妹に芽生えた、「岩手を助けに来てくれてありがとう、遠くから助けに来てくれてありがとう」という気持ちがプラカードの理由だった。 

「毎日いてくれるだけでうれしかった」

岡山県警を3年前に退職していた松永輝之さんは、開口一番、こう語った。「機動隊大隊長」という当時の肩書きを聞いて少しおののいていたが、表情はとてもやわらかだった。

とにかく姉妹に励まされたという。
 
3人で写真を撮影したのは2011年の6月。震災発生から3か月がたとうとしていて、行方不明者の捜索は困難を極めていた。

「一生懸命やっても見つからない。後輩から聞かれたんですよ。こんなことやって意味あるんですか?と。大隊長としてそれに答えられなかった。悔しかった」
 
阪神大震災などいくつもの災害現場を経験してきた松永さんでさえ、警察官の使命を見失いそうになる中で、毎日同じ場所で待っていてくれる姉妹が支えになった。

写真提供 岡山県警察

「毎日いてくれるんですよ、それだけでうれしかった。今振り返ればね、現場では探している人やものが『いない』ことばかりだった。だから、『絶対にいる』ことがどれだけうれしかったか。それで冷静になれて思い出したんですよね。自分たちは誰のために働くのか。被災者のためだって。私たちがあきらめずに発見してあげないといけないなって」(松永輝之さん)
 
派遣の最後には松永さんたちからも姉妹にことばを返した。バスの前に模造紙にサインペンで一番伝えたかったメッセージを貼り付けた。
 
「あやね このか ありがとう」
 
「車外マイクで伝えようかとも思ったんだけど、風で流れちゃったらうまく届かないじゃないですか、ちゃんと伝えたかったので」(松永輝之さん)
 
ことばにしないまま互いを思いあう交流を続けていた3人の、思いが重なった瞬間だった。

ヒーローの思いはしっかり受け継がれていた

姉妹が看護師と助産師を目指すのは、松永さんたちと過ごした日々があったからだと言う。

「誰かのために働いている人が絶対いて、いろんな人がいていろんな人が支え合って、命はつながっていくものだなということを感じたんです。命に直接かかわるという立場から、私が警察の皆さんから教えていただいた命の大切さを伝えていきたいなと思います」(妹の心花さん)

姉妹のそのことばを松永さんに伝えたところ、松永さんは少し空を仰いだあとで答えた。

「人生の1ページですから、宝物ですから。 彼女たちとの出会いもそうですしね。 いつかまた彼女たちと会える日が来るんだろうと思っています。 そのときに当時のことを思い起こしながら、 一緒に笑えたらいいな、笑える日が来たらいいなと思います」(松永輝之さん)


ヒーローは卒業証書を持ってやってきた

「担任の土田です。卒業証書をお届けにあがりました」

12年前に福島市内で撮影された映像には、児童の家を一軒一軒訪ねて子どもたちの門出を祝う先生の姿が映っていた。

「卒業おめでとう。中学校でも自信を持ってがんばってください」

玄関先で卒業証書を読み上げ、児童に手渡す先生。両親が見守る中、まっすぐに先生をみつめて受け取る児童。

わずか5分間、自宅で行われたささやかな卒業式。
この年、東日本大震災と原発事故の影響で卒業式ができない小学校がたくさんあった。

「福島出身です」って自信を持って言ってもらいたい

児童の自宅で「卒業式」をした土田稔教諭は、59歳の今も福島市内で教壇に立っている。いま受け持っているのは5年生。みんな震災のあとに生まれた子どもたちだ。

土田稔 教諭

授業では、自身が経験した震災や原発事故のことを子どもたちに伝えながら、ふるさとのことを好きになってもらえるよう心がけている。

土田教諭:
「みんなのおじいちゃんおばあちゃんが話す福島弁をおしえてください」
子どもたち:
「んだから!」
土田教諭:
「そうだね『んだからー』とか『んだ』って話の終わりにつけるよね」

取材に訪れたこの日は、国語の授業で福島の方言について取り上げていた。

土田教諭:
「調子に乗っているは『おだってる』。みんなも『おだってんじゃねーぞ』っていわれたことないかなー」

先生が話す年季の入った福島弁に、子どもたちの笑顔がこぼれた。

土田教諭:
「先生、59年福島にいますけども、一度も福島から離れたいと思ったことはありません 大好きです」

12年前の震災と原発事故をきっかけに、その思いはより強くなったという。

「地震と津波と、あと風評被害とかね、放射線もありましたけど。福島って名前が他の県の人に避けられてるような時もありましたので。そんな思いもあって、自信を持って福島出身ですって言ってもらいたいという気持ちはやっぱりどこかにありますよ」(土田稔教諭)

あの日、ヒーローの時間は止まった

震災と原発事故が起きたときは、福島市内の渡利小学校で6年生の担任をしていた。渡利小学校は土田教諭の母校で、念願がかなって赴任した思い入れのある学校だった。「一緒に校歌をうたって子どもたちの卒業を見送る」ことを楽しみにしていた。

3月11日は6年生が楽しみにしていた、保護者と先生へ感謝を伝える謝恩会の日だった。体育館で子どもたちと最後の準備をしていた時、突然大きな揺れに襲われた。

揺れがおさまるのを待って、雪がちらつく中で校庭に避難。余震が続いて怖いと泣きながらうずくまる子どもたちを必死になだめた。やっとすべての児童を保護者のもとへ帰すことができたときには、あたりはすっかり暗くなっていた。

「あの日で時間がとまってしまった。無念を感じながらただ教室を片付ける日々でした」(土田稔教諭)

翌週から学校は休校になって、原発事故で学校を再開出来る見込みはなく、卒業式も中止になった。
母校で初めて受け持った6年生を、自分がかつてしてもらったように巣立たせるのが自分の役割だと考えていた。

ヒーローは少し申し訳なさそうだった

6年生の担任3人で、卒業式に向けて用意していた卒業証書や記念品を、児童に直接手渡すために動き出した。

105人の生徒全員に連絡を取り始めた。土田先生のクラスの児童は35人。自主避難して自宅を離れて連絡が取れない児童も多かったが、電話をかけ続けた。

3月31日、年度末ぎりぎりの日。親戚が暮らす会津若松市に避難していてなかなか連絡がつかなかった生徒、田口瑠佳さんのもとを訪れた。

瑠佳さんは卒業式のために用意した友達とおそろいの服を着て、はにかんだ笑顔で出迎えた。
「卒業証書。田口瑠佳、卒業おめでとう」
両親が見守る中で、少し緊張した表情の田口さんに卒業証書を手渡した。

「きょうが瑠佳さんの卒業記念日です。中学校でも自信を持ってがんばってください」(土田稔教諭)

きちんとした式で送り出してあげられない申し訳なさも込めながら、新たな門出を祝う気持ちを伝えた。

わずか5分間の、玄関先でのささやかな卒業式だった。

土田教諭は1週間かけてクラス全員に卒業証書を手渡して、担任としての仕事を終えた。

「ずっと節目を持たずに卒業式の日から1週間以上過ごしてきて、私もそうだし子どもも学校が本当に終わったのか、自分が卒業したのか分からないような状態で過ごしていたので。ようやく区切りをつけて次に向かってくれよ、卒業の記念日だねっていう思いで渡しました」(土田稔教諭)

約30年の教員生活の中で、震災の後もコロナ禍という子どもたちの非日常があった。まもなく定年をむかえる土田先生は、あの日と同じように今も子どもたちをしっかりと卒業させることが自分の役目だと話す。

「いろんな節目をしっかり子どもたちに作ってあげるのは大人の責任かなと思う。本当に当たり前に生活して、当たり前に友達と遊んで、当たり前に卒業をしていく。それをずっと見守っていきたい」(土田稔教諭)

ヒーローのその後は子どもが安心できる場所づくりにつながった

玄関先で卒業証書を受け取ったあの田口瑠佳さんは、24歳の今、宮城県岩沼市でNPOの職員として、経済的な事情などで塾に通えない子どもたちの学習を支援している。

午後6時。学校を終えた子どもたちが次々に施設にやって来る。
田口さんは生徒の隣に座り、子どもがつまずいたところや学校で聞きにくい疑問にやさしく答えていた。

「勉強だけでなく、子どもたちにとって一番は安心と、それこそ話したいことがあってもなくても、何となく、きょう行ってみようかなとか、ちょっとだけ顔出そうかな、話してみようかなっていう場所にしたい」(田口瑠佳さん)

田口さんは、東日本大震災のあと、中学と高校で不登校になった時期があった。
大学生の時にはコロナ禍で孤独で不安な生活が続いた。卒業後、子どもの頃からの夢だった教師になることができたが、体調を崩して退職せざるを得なかった。
順調な人生とは言えないかもしれないが、あのとき先生が卒業証書を届けてくれたことはとても大切な思い出だと振り返る。

「不安なことがすごくたくさんある中で、明るいニュースでした。卒業式ってやっぱり節目だなって。大学の時もコロナ禍で、卒業式は両親も後輩もいなくてあまり卒業したという実感がなかったので、小学校の時、両親に見てもらえたこと、直接手渡ししてもらったことで卒業を実感できてよかった」(田口瑠佳さん)

田口瑠佳さんと卒業証書

NPOの仕事で子どもたちと向き合う中で、あの日の土田先生の行動の意味を改めて考えるようになった。

「今の仕事でも子どもが大人になって振り返って、つらい時に寄り添ってくれた人がいたんだって思ってもらえるようにしたい。子どもがつらく大変な時に何か少しでも明るいことだったり、その子のプラスになることを意識して接していきたい」(田口瑠佳さん)

今は子どもと向き合う立場になった田口さんに、土田先生の思いが卒業証書を通してしっかりと受け継がれていた。

私たちが会いにいった「ヒーロー」たちは、12年たった今でも輝いて見えて、何よりとても温かかった。
そして「名も無きヒーロー」たちに出会えたのも、当時の彼らに心動いたカメラマンが残してくれた映像と写真があったからだ。

災害報道で悩むことは今後も続くだろうが、現場で心が動いたものにレンズを向けてカットを重ね、感じたことを記録することの大切さ、REC(録画)ボタンを押す前にきちんと感じること、そしてカットを重ねていくこと。

当たり前かも知れないが、そんな取材者としての出発点に立ち戻ることができた、ヒーローたちとの出会いだった。

「無償の自転車修理」取材担当
佐藤寿康(札幌局・メディアセンター)
2009年入局。福島県平田村出身。
好きな食べ物は郷土料理のいかにんじん。

「プラカード掲げた姉妹」取材担当
松原一裕(盛岡局・コンテンツセンター)
2010年入局。盛岡局は2度目の赴任。
毎朝「岩手山」を眺めながら通勤するのが楽しみで、岩手山がすっきり見える日はテンションも上がる。岩手の雄大な自然、岩手の人たちの暮らしをこれからも映像で伝えていきたい。好きな食べ物は「盛岡冷麺」。

「卒業証書」取材担当
腹巻尚幸(報道局・映像センター)
2012年入局。青森局や福井局、札幌局など雪国経験が豊富。
原発事故で外で自由に遊べない子どもを支援する団体や、福島から各地へ移り住んだ子どもたちを取材。
子どもたちの目線にたって震災を取材していきたい。

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