「スティーブ・ジョブズ1.0」の真実(前編)
しかし、これは、
どう考えたって、変な組み合わせだ-
1984年1月24日。
スティーブ・ジョブズはステージの上にいた。
「これがあれば、なんでも思い通りに表現できる」
と、自信たっぷりに聴衆に訴えている。それは、アップル社が「マッキントッシュ」を世界にデビューさせた瞬間をうつした、過去の映像だった。
ただ、私の視線は、ジョブズではなく、マッキントッシュの画面に集中していた。そこに映っていたのは、1枚の絵。描かれていたのは、流れるような黒髪をくしでとかす妖艶な日本人女性だ。
その絵は「新版画」と呼ばれる日本の木版画だった。
ジョブズは、会社の命運を賭けた場に、なぜ、この絵を使ったのだろうか?
このネタに私が出会ったのは、2015年のこと。以来8年間、ジョブズの知られざる素顔に迫ろうと、WEBの特集記事を書き続けた。日本語だけで7本。英語でも6本の記事を書いた。
そして今年、私はNHKの記者人生の最後に、集大成となる50分の番組づくりに臨んだ。
テクノロジーが今でも苦手な私だが、なんとしても「ジョブズ1.0」の真実を明らかにしたかった。これから書くのは、山あり谷ありの8年間の記録だ。
最後の夢は
私はこの秋、一線の記者を退く。
9月末で60歳を迎えた。NHKでは誕生月をもって、定年退職となる。
私がNHKに入ったのは、昭和が終わる2年前の1987(昭和62)年。バブル経済のまっただ中。国鉄が分割・民営化され、JRグループ7社が発足した頃でもある。入局1か月後に、朝日新聞社阪神支局の記者が殺害されるという「赤報隊事件」に衝撃を受けながら、ジャーナリズムの世界へ歩み出したことを覚えている。
初任地では警察官に秋田弁でまくしたてられたサツ回り(警察取材)から始まり、フィリピンのマニラ支局では外国人記者でも政府要人と電話一本でやりとりできてしまう取材の自由を知り、青森県の八戸支局では種差海岸の四季の花の美しさに惚れこんだ。管理職試験には合格したが、私は現場が好きだった。
気づけば、もう30年。取材一筋の記者生活に終わりが見え始めた頃、最後にどうしても、かなえたい夢ができてしまった。それは、茨城県の水戸放送局にいたときのことだった。
「新版画」って何?
当時、私は、介護施設に入っていた母を見舞うため、月に数回、東京に通っていた。そのついでに都心のデパートで見つけた美術展の1枚のチラシがきっかけだった。内容は、木版画の一種、「新版画」の作家の展示会だった。
全国転勤であちこちめぐる中、私は出かけた旅先で美術館を訪れることが趣味になっていた。西洋絵画も、江戸時代の版画である浮世絵も好きになった。けれど、新版画は全く知らなかった。
新版画というのは、明治後半から昭和にかけて作られた木版画で、江戸時代の浮世絵の制作技術を継承しながらも、新たな彫りや摺りを加えて、より高い芸術性の表現を目指した版画のことだ。
中でも、川瀬巴水(1883-1957年)は風景版画の第一人者で、その精緻な作風は、浮世絵の葛飾北斎と歌川広重と共に、「3H(Hokusai、Hiroshige、Hasui)」と並び称されたという。
明暗のつけ方やグラデーションの美しさ、それに、透明感もある色合い。その郷愁あふれる独特の情景は、海外でも人気を博した。
その展示会に行く直前、2014年の暮れのこと。たまたま、川瀬巴水を特集したNHK「日曜美術館」のアンコール放送を見た。冒頭のシーンがとても印象的だった。銀座にあった老舗の画廊に勤めた男性が、巴水の作品を買い求めた1人の外国人の名刺を取り出していた。
それが、スティーブ・ジョブズだった。
ジョブズが、禅や和食に親しんでいたというのは有名な話で、私でも知っていた。しかし、新版画とのつながりは、聞いたことがなかった。試しにネットで検索してみても、ヒットしなかった。
もし、そこに知られざる結びつきがあるなら、ネタになるかもしれない。記者としてそう直感した。
「ジョブズ」でイーハンをつけろ!
それから、まもなくだった。2015年の年明け、茨城県日立市にある茨城キリスト教大学で、巴水の展示会が開かれることを知った。これにはビビッときた。
すぐに思いついたタイトル。
「スティーブ・ジョブズも愛した新版画作家・川瀬巴水の作品展」
こりゃ、スティーブ・ジョブズのイーハンつきで、全国放送のリポートも狙えるゾ!
「イーハンをつける」というのは、麻雀の言葉で「小さい役をつけることで、元のあがり役より少しでも高い役をつけてあがろうとする」という意味だ。要するに、ニュースの価値を高めるということのたとえである。「このネタ、もうちょっとイーハンつけられない?」。新人の頃、デスクや先輩に何回も聞かれた言葉だ。
ローカルから首都圏、さらに全国により広く伝えたいと思うのは、記者としての“本能”だ。ただ、イーハンをつけるには、一見バラバラの要素を結びつけなければならない。パズルのピースは、「巴水」、「茨城」、そして「ジョブズ」だ。
なぜ、茨城の大学なのか。実は、巴水は生前、学園の関係者と親しく、何度もキャンパスを訪れては水彩画を描いていて、2011年には大学内で彼の作品が4点見つかった。これが、展示の目玉になっていた。巴水が戦後まもない頃、後援者がいた水戸を頻繁に訪れていたことも分かった。
巴水は旅を愛して風景を写生し、74年の生涯に600点を超える作品を残した。大学の有志の団体の調べによると、巴水の都道府県別の作品数では、東京の122点をはじめ、静岡、栃木、京都に続いて、茨城は26点でトップ5に入っている。
ただ、これだけなら、ふつうのローカル企画だ。イーハンには、なんとしても、「ジョブズ」がいる。
そこで「日曜美術館」でジョブズの名刺を見せた美術商を探すことにした。すると、彼が今も東京で美術商を続けていることが分かった。松岡春夫さんは、ジョブズと20年の付き合いがあった。
“この人に断られたら終わりだ…”
緊張しながらインタビューを申し込むと、快くアポ取りに応じてくれた。
これで「巴水」と「ジョブズ」のつながりが見えた。水戸放送局の夕方のニュースでリポートを流すことができた。
すると、番組終了後、1分とかからなかった。
「こちらでも放送させてほしい」
電話の相手は「おはよう日本」の番組担当者だった。無事、全国放送に採用されることになった。
4日後に全国で放送されたあと、NHK WORLDにも掛け合ったところ、英語のリポートにもなった。一気に“世界”まで駆け上がった。
ただ、肝心の部分については、まだ何も証明できていなかった。
ーどうしてジョブズは、新版画を集めていたのだろうか?
ーなにが彼を魅了したのか?
不完全なリストから
2017年6月、私は東京の国際放送局World News部に異動した。新たな仕事を覚えるのは、時間がかかるものだ。しばらくは、日々の業務を覚えることに集中しなければならなかった。
だが、あれだけで終わりにする気はなかった。9月、再び松岡さんのもとを訪れて、こう宣言した。
「このネタは必ずモノにします。ご協力をお願いします」
松岡さんは、私にいろいろな資料を見せてくれた。ジョブズの新版画コレクションが、それまで明るみに出ていなかった理由もわかってきた。
商売上のマナーとして、松岡さんは、ジョブズが新版画を集めていたこと自体、口外はしなかった。
ただ、ジョブズは2011年に56歳で亡くなってしまった。松岡さんは、歴史に名を残すような人物が興味を持った作品の記録ならば、日本の版画の文化を世界に知ってもらうためにも、伝える価値があるのではないかと感じ始めていた。 “運命”というと大げさだろうか。私が松岡さんに取材したのは、そんな頃だった。
松岡さんは過去のことを記録した手帳の大半は廃棄していたが、ジョブズに関するページだけは残していた。それだけ、忘れられない顧客だったのだろう。購入した新版画のリストについても、メモを残していた。ただ、完全な形ではなかった。
メモには、同じタイトルの作品が2点記されている箇所があるなど、不鮮明なところもあった。正確なファクトは取材の肝だ。私は購入リストの復元を試みた。
松岡さんに記憶をたどり直してもらった。画集を開いては作品一つ一つ見せてもらうという、なかなか根気のいる作業だった。
この日、松岡さんの自宅で4時間近くも作業をさせてもらったが、それでも終わらず、翌月にもう一度訪れ、さらに3時間近くかかった。
こうして判明したリストによれば、ジョブズが購入した新版画は、この時点では少なくとも41点 。そのうち、6割を占める25点は巴水のものだった(のちの取材で購入した全体数は最終的に、48点となることが判明する)。
果たして、この事実は、いったい何を物語るのか。
ノーマークの人物が鍵だった
この頃、新たな進展があった。シフト勤務につきながら、あいた時間はネットで思いつく限りのキーワードで検索して、英語の記事を読みあさっていた。
”Steve Jobs”、“Hasui Kawase”、”woodblock print”(版画)・・・
特ダネがネットに転がっているわけなどないのだが、せめて糸口だけでも…と思っていると、「念じれば通ず」というのだろうか。1本の動画に出くわした。
“How My Mom Influenced Steve Jobs”
「母がスティーブ・ジョブズに与えた影響」とは、何だろう。
2分余りの短い動画で、再生回数は1000回にも満たなかった。ビル・フェルナンデスと名乗る、赤のTシャツを着た男性が話していた。
少々いぶかしく思いながら、映像を見始めると、彼はジョブズの幼なじみだと語っていた。
次の言葉に、私はのけぞった。
“an artist named Hasui Kawase”
そう、彼は確かに「ハスイ・カワセ」と口にした。幼き日のジョブズと川瀬巴水がつながっていたというのか…?
どんぴしゃり!
これぞ、私が探し求めていたことだった。
ちなみに、「ビル・フェルナンデス」という名前は、ジョブズ公認の自伝(ウォルター・アイザックソン著『スティーブ・ジョブズ』)には、索引でわずか2か所しか出ていない。ほとんどノーマークの人物と言っていいだろう。
もう少し調べると、彼についての他の記事も見つけた。記事によると、彼はアップル・コンピュータの第1号社員らしい。趣味は合気道で、アップルに勤めたあと、1979年に日本に行って、札幌で2年間暮らしていた。
注目すべきは、記事に載っていた彼の実家の写真だった。それは全体の色合いが薄茶と白で統一され、極めてシンプル。その一角に、1枚の絵が掛かっていた。
この絵について、松岡さんに尋ねたところ、やはり新版画だそうだ。(小原古邨の「鯉二匹」ではないか、とのこと)。
つまり、若きジョブズを新版画にいざなったのは、フェルナンデス氏とその母親ではないか。
想像力をたくましくした。
“どういたしましゅて”
フェルナンデス氏の連絡先と思われるものが見つかったのは、2017年12月上旬だった。ダメでもともと。メールを送ってみた。
すると翌日、「やり取りができたらうれしい」と、返信がきた。小躍りしてしまった。
次のメールには、15項目の質問を列挙した。職場の親しいネイティブに文面を入念にチェックしてもらったうえ、私はその“ラブレター”を送った。
文末には、かつて暮らした日本のことを思い出してもらおうと、ローマ字でこう記した。
“Arigato gozaimasu. Yoroshiku onegai shimasu.”
すると、2日後に長文の回答がきた。要約するとこうだった。
メールの最後には、“Douitashimashte.(どういたしましゅて)”と記されていた。久しぶりに書いた日本語だったのだろう。よく見ると、2番目の「i」が抜けているのが、なんとも微笑ましい。太平洋をはさんで、心が触れ合った気がした。
決定的な写真が見つかるも…
この間、「マッキントッシュ」のデモ映像に使われていたあの女性の絵が、新版画の作家・橋口五葉の「髪梳ける女」(1920年)であることも確認した。
そして、ジョブズの自伝にもヒントが隠されていた。掲載された自宅の書斎の写真を注意深く見ると、なんと、後ろの方に小さく、日本の絵画が掛かっていたのだ。
これも新版画、鳥居言人の傑作、「朝寝髪」(1930年)だと分かった。プライベートでのジョブズと新版画との親密な関係を示す決定的な写真だった。
ただ、取材はここでしばらく止まってしまった。
当時は、外国人留学生の就職問題や、東京五輪を前にしたアンチ・ドーピング認証ビジネスなどのテーマも追っていた。加えて、私のような年次は、取材だけでなく、デスク業務も兼任していた。そして、何より、取材対象の多くは海の向こうだ。
2018年から翌年にかけては、これといった成果を見いだせないまま、暮れていった。
番組提案のチャンスは
2019 年10 月初め、翌年度の「NHK スペシャル」の提案募集があることを知った。「このネタで絶対に番組を提案するゾ!」という思いだけは持ち続けていたので、それまでの取材の成果を番組提案として出すことにした。
私の仮説は、ずばり、
「ジョブズが新版画から学んだ感性は、アップル製品のコンセプトにまで結びついている」
というものだった。提案が採用されてアメリカで取材できれば、ジョブズが新版画にこだわった真の理由を証明できるのではないか。多少なりとも、期待は抱いていた。
しかし、、、
「新版画を集めていたというだけでは…」
採用には至らなかった。
せめて取材を前に進められないかと思い、担当者に尋ねた。
「関係者の多くはアメリカにいるので、取材はメールや電話だけで、いわば”徒手空拳”でやっている状態です。現地のリサーチャーを雇うことはできませんか?」
だが、この時点では難しいということだった。
こんなものか...
決めた。ここはいったん、撤退しよう。
その日の手帳には、赤字で「S.Jobs 提案」と、事実だけを記した。「提案不採用」などとは、書き残したくなかった。このネタは、必ず陽の目を見るという確信があったからだ。
たしかに、これは、事件や事故といった発生物のネタではない。「次の総理に誰々を後継指名」というような政治ネタでもない。ニュースとして華々しいものではない。しかし、私は、あのジョブズが新版画を集めていたという事実に、素直な驚きを感じた。
ネタというものはそもそも、「えーっ!」とか、「ほんと?」といった感嘆符から始まるものだと思う。それが記者の“本能”であり、取材の原点だ。そうして感じたものの中から、絶対に特ダネも出てくる。少なくとも、私はそう思うし、そうしてきた。
2日後、松岡さんの自宅を訪れ、提案の結果を報告した。
「必ずモノにしたいネタなので、今後ともよろしくお願いします」
2年前と同じ宣言だった。松岡さんはニコニコしていた。その笑顔に救われる思いだった。
またチャンスはめぐってくる。「アメリカ出張が必須だ」と思ってもらえるレベルまで取材を突き詰めれば、必ず道は開ける。
そう信じていた。
だが、そんな思いとは裏腹に、世界では未知のウイルスの猛威が広がり始めていた。
(中編に続く)
佐伯健太郎 記者
国際放送局 World News部 記者
1987年入局。秋田放送局、マニラ支局長、八戸支局、水戸放送局などを経てWorld News部記者。2023年9月末で定年退職。ジョブズのネタを見つけた水戸では、偕楽園で開かれる「水戸の梅まつり」に、観光客を迎える黄門さま一行にふんして2年連続で参加しました。水戸放送局で人手が足りなかったら、ぜひ、私に声をかけてください。馳せ参じます!
【編集・構成 杉本宙矢】
佐伯記者が取り組んだ記事・番組は
NHK WORLD PRIME(YouTube)からも
https://www.youtube.com/watch?v=1_qcvhXdzXg
【NHK WORLD Backstories の記事】