「スティーブ・ジョブズ1.0」の真実(後編)
ジョブズよ、なぜ、語ってくれていなかったのか・・・
ジョブズは、2011年に亡くなっている。私が取材してきた「新版画」とのつながりについて、本人が直接話したり、書き残したりしたものは見つかっていなかった。
「ジョブズが直接、新版画に言及しているカギカッコがないことが最大の弱点でしたね」
これは、英語番組を一緒に制作した同僚の言葉だった。マッキントッシュの開発チームのメンバーやアップル社の幹部でさえ、誰も知らない。そう思わざるをえないほど、新版画とジョブズとのつながりは極めてプライベートで、ベールに包まれていた。
けれど、“状況証拠”はある。ならば、それを積み上げていくしかない。アメリカ取材に必ず行く。ビル・フェルナンデスさんがいるニューメキシコ州のアルバカーキがロケの最終目的地だ。50分の日本語番組は、きっとできる。
前年のリポートから番組まで一緒に仕事をしてきた荒木真登ディレクターにこう宣言した。
「アルバカーキまで、必ず連れて行くからな!」
ジョブズと“壺”
さすがに新版画を深掘りするだけでは限界を感じていた。新しいアプローチ、プラスアルファが必要だ。
何か見落としていることはないか。取材で集めた資料やインタビューの書き起こしを読み直してみた。ふと、京都で出会ったジョブズ御用達のハイヤーの運転手、大島浩さんの話に目が留まった。
気になって大島さんに電話をかけ、改めて、当時の足取りについて覚えていることを尋ねた。
ジョブズに壺?そして、信楽焼のたぬき?...
最先端のテクノロジーを扱うジョブズと日本の伝統的な壺が、即座には結びつかなかった。マッキントッシュがデビューしたときの画面に、新版画が使われたのと同じ“違和感”を覚えた。
とはいえ、大島さんが言うことだ。「壺」「焼き物」というキーワードで調べ直してみると、ある人物の存在が浮かび上がってきた。ツイッター(現X)に、英語でこんな投稿があった。
ロバート・イエリンさんは、日本に住んでいる古美術商であり、陶磁器の専門家だ。アメリカ出身で、今は京都に焼き物のギャラリーを構えている。連絡を取ってみると、快く取材に応じてくれた。
イエリンさんがジョブズと出会ったのは、1999年のことだった。
アップル社から「ジョブズに東京で焼き物を案内して回ることはできるか?」と電話がかかってきた。
それは、ジョブズがアップル社に復帰してから初めての日本講演のタイミングに合わせた依頼だった。
イエリンさんによると、当日現れたジョブズは、まるで「お菓子屋さんにいる子どものように」焼き物を見て喜んでいて、最も興味を持ったのが、信楽焼の壺だったそうだ。
信楽焼とは、滋賀県甲賀市信楽を中心に作られ、鎌倉時代から生産が続いている陶器だ。窯の中で自然にできる焦げ色が特徴で、独特の「わびさび」に味わいがある。
中でも、この「蹲」と呼ばれる形の壺が、ジョブズのお気に召したらしい。人がしゃがみ込んだ姿に見えることから、そう名付けられた。彼は、壺の肩のなだらかなカーブをなでたりして、「Oh、Oh…OK」「sublime」(神々しい)と、口に出していた。
「壺」と「丸み」と「iMac」
イエリンさんへの取材も踏まえ、同僚と意見交換をすると、iMacやマウスのデザインのキーワードとしてよく出ている「丸み」や「カーブ」に注目できるのでは、という話が出た。
「壺」、「焼き物」、「丸み」、「カーブ」、そして、「iMac」...
取材を進めながら、バラバラだったパーツが収斂していくような感じを覚えていた。
でも、感覚だけではダメだ。一次情報で確認しなければ。
取材を進めると、次々と具体的なファクトが集まってきた。
①1996年:京都の骨董店への訪問
大島さんが話していた京都の新門前通で、ジョブズは妻と定休日のギャラリーをのぞきこんでいた。店の人に促されて中に入るとすぐに、「コレとコレとアレ」と3点の作品を指さして購入した。そして「この作品をつくった作家に、カリフォルニアの自宅に来て、壁から水が流れてくるオブジェをつくってほしい」と依頼していた。
②「角を丸くして欲しい」とオーダー
同じ時期、京都の別のギャラリーでの出来事。ジョブズは妻と個展を見学した。会場で展示作品を両手で包むようにして感触を確かめていたかと思うと、「この土はどこで手に入るのか」「何度で焼くのか」「土は山のどの辺でとれるのか」など、英語をほとんど話せない陶芸家を1時間以上にわたって質問攻めにした。ジョブズは四角い皿をオーダーする際に、「角を丸くしてほしい」と指示した。作家がイラストで描いてみせると、「もっと大胆に丸くして欲しい」と、紙に書いて注文を付けた。
こうした「丸み」へのこだわりは、「iMac」をはじめとするアップル製品を予感せずにはいられない。
そして、ジョブズは生涯、こだわりを失わなかった。こんなエピソードも見つかった。
③「灰かぶり」について名人に質問
亡くなる前年の京都旅行で、信楽焼の窯元を訪ねていたことも分かった。江戸時代から続く技術を受け継いだ名人、五代目・髙橋楽斎さんに、いきなり「“灰かぶり”の茶碗はないか?」と尋ねて驚かせた。最終的にジョブズが選んだのは、楽斎さんが最も出来がいいと感じていた自信作の大鉢だった。帰り際には、英語で数分語りかけ、最後に「Good!」と言って去った。
新版画と同様、私は焼き物のことは素人だった。調べて分かったのだが、「灰かぶり」というのは、窯の中で燃えた薪の灰が器にかかり、それが溶けてガラスのような表面になる現象のこと。信楽焼の魅力の一つだという。
ジョブズは日本語で「灰かぶり」と言ったそうだ。よほどの通である。
ここまでの取材の成果を、英語リポートと記事にまとめることができた。
そのリポートを放送した2022年2月24日は、ロシアがウクライナへの侵略を始めた日だった。ニュースはそれ一色になった。
タイムリミットまで1年余り
第2弾の番組に到達するには、“壺”でも足りなかった。
「ジョブズのものづくりの原点には日本があった」
そう説得力を持って言えるほどの、決定的な証言をつかまえないといけない。
でも、一体、誰がそれを語れるのか?
ジョブズの妻ローリーン、長女リサ、末娘のイブ、実の妹のモナ・シンプソン。それぞれが所属する組織の広報を通して連絡したが、いずれも取材は難しかった。アップル初期のメンバーからも、決定的な証言は得られなかった。あの旧友のビル・フェルナンデスさんでさえ、「何それ?」とジョブズの壺好きは知らなかった。ジョブズと仕事をした主要なデザイナーにも連絡したが、ほとんど回答がなかった。
新版画にしても、壺にしても、取材をすればするほど、ジョブズが職場の同僚に話していないことは明らかだった。会社の広報などを通して正面から取材を申し込んでも、反応が鈍い。
すでに、2022年6月になっていた。退職のタイムリミットまで1年余り。
実は、ジョブズの取材を始めてから、毎日、朝起きたときと寝る前には、必ず、浅草酉の市で買った熊手に向かって祈願していた。2020年のWEB記事から始めて、リポート、番組、そして、壺と、次々と壁を乗り超えることができて、仲間もできた。「第2弾の50分番組は絶対実現できる」と祈り続けていた。
太平洋ひとりぼっち…
希望は、またしても、インターネット上に現れた。
その頃、同僚から「ビジネス向けのSNSに番組の感想が載っていたよ」と言われた。それは、海外の知人からも勧められたことのあるソーシャルメディアだったが、アナログ人間の私は敬遠していた。
しかし、いざ見てみると、ユーザーには、アップル社に勤めた経歴の人もいるではないか。しかも、相手が承認してくれれば、直接メッセージを送ることができる。私はアップル関係者を見つけては、質問を送っていった。
―ジョブズは、日本の特定の文化から影響を受けたと話していましたか?
―ジョブズは、日本文化のどんな点をデザインに取り入れましたか?
相変わらずの“徒手空拳”だったが、悔いは残したくなかった。
こんな回答もあった。
具体的な情報を持っている人に接触できるまで、2か月かかった。それでもまだ、決定的な証言にはたどり着けなかった。ジョブズの右腕だったアップル社のデザイナーたちからも、芳しい返事はなかった。
やたらとハードルが高い。どうやらこれには、アメリカのNDA(Non-Disclosure Agreement)=秘密保持契約が関わっている可能性があると思えた。訴訟が多いアメリカでは、個人情報などの漏洩を防ぐためにNDAが広く用いられている。その影響力は、アップル社を取材したジャーナリストの本にもこう書かれているほどだ。
そのことを示唆するメッセージも受け取った。
すでにメッセージを送った数はおよそ80人。メールで連絡した人と合わせれば、100人を優に超えていた。
私は、“太平洋ひとりぼっち”だった。
果たして、アメリカの西海岸までたどり着けるのか、見通しが立たなかった。
しかし、“神様”はいた!
ついに、アップルに10年以上勤めたという元社員が、「あんた、おもしろいことやってるねー!そのテーマで思い浮かぶのは、この人かな」と言ってきた。私が全く知らない名前だった。
その人が何を知っているのか?本当に?期待は持っていなかった。けれど、接触したその人物は、「あなたが思っている以上に、ジョブズと日本とのつながりは深い」とメールに書いてきた。何より、この人の人脈がすごかった。オンラインで打ち合わせると、「人を紹介するよ」と言われた。
待つこと1ヶ月。2022年9月下旬、その人物から長文のメールが届いた。
差出人の名は「ジョン・スカリー」
そう。ジョブズと「ダイナミック・デュオ」と呼ばれた、アップル社の元CEOだった。
「私はジョブズ1.0を知っています」
「ジョン・スカリー」の評価は、ジョブズの文脈ではネガティブだった。
スカリーさんは大手飲料メーカーのCEOだったが、そのマーケティングの腕を見込んで、1983年、ジョブズがアップルのCEOに引き抜いた。そのときの言葉はあまりにも有名だ。
「一生、砂糖水を売り続けたいのか、それとも一緒に世界を変えたいのか」
しかし、2人は経営で対立し、ジョブズは1985年にアップルを去った。このため、スカリーさんは「ジョブズを追い出したCEO」として知られている。
だが、82年秋に出会ってから3年間、スカリーさんほど、ジョブズを間近で見ていた人物はいなかった。彼からのメールには、こう記されていた。
番組の目玉は、これで決まりだった。
10月末、アメリカ取材を盛り込んだ、50分の番組提案がついに採択された。
夢のアメリカ現地取材も…
20年ぶりの海外出張だ。7人にインタビューする予定で、期間は2週間ほど。準備はあわただしかった。
年が明けた2023年1月14日。私はサンフランシスコ空港に降り立った。現地のコーディネーターとカメラマンと合流すると、まずある場所へ向かった。
カリフォルニア州ロスアルトスにある「クリストドライブ2066番地」。ジョブズが育った家で、アップル初期のコンピューターをつくったというガレージが有名だ。
ここまできた。到着した瞬間、とてもうれしかった。
だが、ホッとしたのもつかの間。序盤のインタビューで暗雲が立ち込めた。
先方には事前に、番組の趣旨と質問したい項目は伝えていた。しかし、いざインタビューを始めると、その人から思うような答えが返ってこない。なぜか、ジョブズのことを話そうとしない。
攻め口も変えて聞こうとしたが、やはりストレートな答えは返ってこない。やり取りをチェックしていた荒木ディレクターも混乱していた。4時間近くいたが、取材クルーの雰囲気は最後まで重々しかった。
このあと、小高い丘を探してシリコンバレー全体の景観を撮り、イラン人が経営するレストランで遅い昼食のケバブを食べた。のどを通らなかった。
ようやくアメリカにたどり着いたのに、このまま終わるのか…
取材の天王山
取材の“天王山”は、アップル社の元CEOジョン・スカリーさんへのインタビューだった。実は、アメリカに来る前、ちょっとしたトラブルがあった。
事前のやり取りで、スカリーさんからは、電話番号も住所も教えてもらっていた。しかし、いざ出張が決まり、インタビューの日程を尋ねようと電話をしても、全然つながらない。
何回もかけるのだが、音信不通が続く。ずるずると日にちが経った。もう取材クルーも決まっている。焦った。
切羽詰まって、ワシントンにいる人から電話をかけてもらったら、あっけなくアポがとれた。スカリーさんは、携帯の番号を見て、外国からの怪しい電話だと思ったそうだ。命拾いした。
そして当日。スカリーさんは、笑顔で私たちを出迎えてくれた。83歳とは思えない、かくしゃくとした様子で、元CEOとしての風格は健在だった。
スカリーさんはインタビュー前に、私たちを書斎に案内した。部屋と廊下には、現代アートの絵画や彫刻が飾られていた。かつてジョブズとの共通の話題がアートであったことが、うかがい知れた。
書斎であるものを見せてくれた。透明な板に、何やら手書きで書かれていた。
これは、アップル社のCEOに就任してから1年後に、ジョブズからサプライズでプレゼントされたものだという。コンピューター業界で生き残るのは、アップルとIBM。その後、ソニーのような日本企業がライバルになる・・・
ジョブズが描いた未来予想図だった。
スカリーさんは、かつて経営をめぐって対立したとはいえ、今でもジョブズのことを尊敬しているのだろう。嫌いな人からのプレゼントを、自分の書斎に飾っておくような人はいないと思った。
“最も完璧なインタビュー”
いよいよインタビューだ。
すべてはこのときにかかっている。
私は、抱いていた素直な質問から入った。
―あなたはこれまで、数えきれないほどのインタビューを受けてきたと思います。そもそも、私たちのインタビューを快諾してくれたのは、なぜだったのでしょうか?
「スティーブ・ジョブズの日本文化や日本のデザインへの愛情について取材していることに、感銘を受けました。彼と密接に仕事をした私は、そのことをよく分かっています。彼の人生においては、日本での経験がとても重要な部分を占めているからなのです」
含みのある出だしだった。
まず、大まかな質問から入っていく。
―彼にとって、日本はどんな存在だったのでしょうか?
「スティーブはソニーのウォークマンのような素晴らしい製品を愛していました。陶器のような芸術作品もそうでした。それらはみな根本に、一貫した考え方があるからです。彼は、職人が生涯をかけてものを作り上げるという考え方に魅了されていました。版画であれ、陶器であれ、彼はとても尊敬していました。彼がビジネスリーダーとしてやりたかったのは、その考え方を生かして製品を作ることだったのです」
新版画に陶器、それがアップル製品へと結びつく証言。誰も直接そのことを語ってくれた人はいなかった。スカリーさんの話し方には、よどみがなかった。
次に、話はプライベートな場面に移った。スカリーさんはジョブズの部屋に行ったときの場面を回想した。
「彼の寝室には、シンプルなシングルベッドがあるだけで、壁には3枚の額縁が掛かっていました。一つはアインシュタイン、もう一つはガンジー、三つめは日本の女性を描いた(新)版画でした。ほかにあったのはランプだけでした」
アインシュタイン、ガンジー、それに「新版画」?
こんなエピソードは、スカリーが1988年に出した回顧録にも載っていなかった。
思わず聞いた。
―その二つと新版画との組み合わせに、違和感は覚えませんでしたか?
「まったくありませんでした。彼はとても感受性が豊かで、自分にとって大切なものは、とても注意深く選んでいました。彼は日本の文化から大きな影響を受けていました。新版画はアインシュタインやガンジーと同じくらい、彼にとって大切なものだったんです」
―では、ジョブズにとって、いったい新版画とは何なのでしょうか?
8年越しの問い。どうしても、答えが欲しかった。
スカリーさんは40年前のある日を思い浮かべながら、こう話した。
「1983年3月末に日本から戻ったスティーブとニューヨークで会ったとき、彼が興奮しながら新版画について話していたのをよく覚えています。
彼は『とてもわくわくする経験だった。日本の版画は職人たちの分業で作られると思っていたんだ。でも、新版画は、絵師が彫り師や摺り師を通じて“自己表現”したものだったんだ』と話しました。
そのうえで、彼はこう言いました。
『これこそまさに、マッキントッシュの技術で僕たちがやろうとしていることなんだ!』」
これだ!スカリーさんへのインタビューで、最も腑に落ちた言葉だった。
なぜジョブズは会社の命運をかけたあの場所で、「新版画」を使ったのか。それは必然だった。新版画は、一人の絵師が、彫りから摺りまで、すべての工程に関わって「自己表現」をする。誰もが、その絵師のように、自分の作りたいものを思い描き、形作り、実現する。誰もが、自己表現ができる世界をつくる。それこそが、ジョブズが思い描いていた理想。新版画はマッキントッシュの理念そのものだったのだ!
ジョブズについて話すスカリーさんの言葉一つ一つが、私の胸にストーンと落ちた。
「この人の言葉を聞くために、取材してきたんだ…」
8年間の取材のすべてが、報われる思いだった。
最後に、改めて尋ねた。
―ジョブズにとって、日本はどんな存在だったと思いますか?
「スティーブの人生で一貫していたことがあります。日本を見て、そこから学ぶということです。彼は、和食、日本の美術、そして、職人の技を愛していました。その一つ一つが、彼の人生を形作る重要な要素になっていったのです」
インタビューを1時間ほどで終えた私は、感動していた。36年の記者生活で、最も完璧にできたインタビューだった。世界がスティーブ・ジョブズの名前をまだ知らない時代に、彼が“日本”との結びつきを強めていった、いわば「スティーブ・ジョブズ1.0」、その真実の姿にたどり着いた瞬間だった。
「どうだった?」とでも言いたげに、笑みを浮かべていたスカリーさんに、私は思わず、「ファンタスティック!」と言って感謝した。私は荒木ディレクターと、満面の笑みで固く握手をした。
日本語版の夢、実る
スカリーさんのインタビューから2日後、私たちはニューメキシコ州に向かった。
太平洋を超えて1万キロ。2017年12月に初めてメールを受け取ってから6年越し。ついにジョブズの親友、ビル・フェルナンデスさんと対面できた。インタビューはとてもスムーズだった。
どうだ、荒木さん!ほら、言った通り、アルバカーキまで来たぞ!
帰国後、番組は48分に編集され、まずは2023年3月25日にNHK WORLDで ”Steve Jobs and Japan” というタイトルで放送された。
その2日後、念願の日本語版がBS1で放送されることが決まった。短いニュースやリポートでは伝えきれない、50分の番組の重み。
ジョブズが日本文化にどれだけ大きな影響を受けていたのか、早く日本の視聴者と読者に伝えたかった。6月17日、「日本に憧れ 日本に学ぶ 〜スティーブ・ジョブズ ものづくりの原点」が放送された。タイトルは、取材を応援してきたチーフ・プロデューサーが考えてくれた。
夢がかなった。8年間の努力が報われた。
あわせて3つのWEB特集も書いた。
2023年5月23日
スティーブ・ジョブズ マックを生んだ日本の新版画との出会い
2023年5月26日
スティーブ・ジョブズと盛田昭夫
2023年6月9日
スティーブ・ジョブズが日本に見出したものは?
※記事末に過去記事の一覧表があります。
新版画、京都、壺、灰かぶり、ソニー…すべての点が線となり、やがて面となり、「スティーブ・ジョブズ1.0」という立体的な像が浮かび上がった。そこに「日本に憧れ、日本に学んだ」ジョブズがいた。
我が記者人生
2015年に水戸放送局で取材を始め、ことし6月、ようやく日本語の50分番組の放送までたどり着いた。
思えば、この8年間、自分が感じた「!」や「?」に向き合って、小さなファクトを積み重ねることの繰り返しだった。
私はこれでNHKの記者を引退するが、
最後に全国の記者にエールを送りたい。
提案が採用されないという経験は、
全国の皆がしていると思う。
でも、くじけちゃいけない。
コツコツと取材を続ければ、
何らかのファクトにぶち当たる。
それを地道に続けていれば、
興味を持ってくれる仲間ができる。
仲間ができれば、相談もできる。
時にぶつかり合いながらも、
取材で集めた情報を見直し、
新たな切り口を探し出す。
少しずつでも前進する。
それを繰り返す。
そうすれば、リポートや番組という
「夢」を実現できる可能性も高まる。
やがて、夢は実現する!
それはきっと、どんな仕事でも同じだ。
努力を続けていれば、誰かが見てくれている。
実は、この「取材ノート」は、私が提案したわけではない。去年の夏、ネットワーク報道部の記者とデスクが、「ジョブズについて続けている取材を書いてみませんか」と声をかけてくれたのである。「取材への熱量を感じたから」と理由を話してくれた。
ジョブズに関する取材ノートは、8冊に及んだ。資料を納めたファイルは7冊になった。これらは、かけがえのない“宝”だ。
そして...また、夢ができた。
次の夢は、私の8年間の取材とこの“宝”をまとまった記録として残すことだ。できれば、書籍のような形がいいと思う。本は未来に残る。まだあてもないが、歳をとっても、夢を見続ける自分でありたい。
1987年から36年にわたるNHK記者としての生活は、幕を閉じるが、
我が記者人生に悔いなし。
私も、次の「夢」を見ながら、新たな歩みを始めます。
前進しながら仲間をつくれば、少しでも「夢」に近づくことができます。
最後に、ここまで私の「取材ノート」を前編、中編、後編と読んでいただき、ありがとうございました。
読んでいただいた方々にとって、多少なりとも、一歩前に踏み出すきっかけになってくれたら、とてもうれしいです。
それでは、またどこかで。
佐伯健太郎 記者
国際放送局 World News部 記者
1987年入局。2023年9月末で退職。私の36年間は、秋田、東京、マニラ、東京、福岡、八戸、青森、松山、水戸、東京という異動だった。記者を続けてきた私に、神様が仲間を与えてくれて、最後の年にご褒美をくれたのかもしれない。写真は「約束の地」、ニューメキシコ州アルバカーキにて荒木ディレクター(左)と。彼のアイデアや構成力なしには、番組は成立しなかった。ありがとう。これからもよろしくお願いします。
【編集・構成 杉本宙矢】
ジョブズのWEB特集一覧
①2020年5月26日 知られざるスティーブ・ジョブズ・コレクション 画廊との20年
②2021年7月1日 スティーブ・ジョブズ「美」の原点
③2021年7月28日 スティーブ・ジョブズ in 京都
④2022年5月19日 スティーブ・ジョブズの壺(つぼ)
⑤2023年5月23日 スティーブ・ジョブズ マックを生んだ日本の新版画との出会い
⑥2023年5月26日 スティーブ・ジョブズと盛田昭夫
⑦2023年6月9日 スティーブ・ジョブズが日本に見出したものは?
番組情報
英語番組はNHK WORLD PRIME(YouTube)からも
https://www.youtube.com/watch?v=1_qcvhXdzXg
番組の見どころ解説記事
【NHK WORLD Backstories 佐伯記者の記事】