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五月雨に打たれ、君を待つ

ただ藤吉夏鈴さんのことが好きな私が櫻坂46の『五月雨よ』の歌詞を考察する試みです。


編集後記の方が個人的には自信あったりします。


序文

さて、早速歌詞の考察に移りたいところですが、一度ここで寄り道をします。

まず考察をする際に私は「五月雨」という樋口一葉の短編小説を思い出しました。一応、青空文庫のURLを貼っておきます。

お世辞にも有名とは決して言えないのであらすじを軽く説明しておきます。

よくある男女の三角関係を描いた作品なのですが、杉原三郎と杉原を好きな裕福な家の娘である梨本優子と八重の三人が登場します。八重は梨本に使える従者ですが、二人は本当の姉妹のように仲が良いです。ある時梨本は杉原のことが好きだと八重に伝え、八重はその恋が実るよう梨本と約束を交わします。ですが、杉原と八重は元々幼馴染で、両親をなくした八重は先に東京に来ていた杉原を追って上京したのでした。八重は自分の気持ちを押し殺し、梨本の為に手紙を杉原に届けます。それに対し杉原は和歌を二人に残して消息がつかめなくなってしまいます。そんなある「五月雨」の日、二人がめいめいの思いに耽っていると窓から出家した杉原の姿を目にする、そんな話です。

この作品では、失踪した杉原を目の前にする終盤に「五月雨」という言葉が使われています。この「五月雨」が作中で一体どんな意味を持つのでしょうか。

それは「心が(善悪に関わらず)何かに取り憑かれて不安定な状態」と言えるでしょう。

作中では、梨本と八重の気持ちが複雑に入り混じります。梨本にとっても、八重にとっても杉原に対する各々の気持ちがあって、それはどちらかが間違っている訳でもないのに、一方が諦めなければならず、一方の気持ちは決して晴れることも無く、いつまでそんな状況がいつまで続くのかも分からず、互いに自身の気持ちにどういう形であれ決着がつくことを望んでいる様子を、「五月雨」を使い樋口一葉は表現しています。「五月雨」という言葉を使わざるを得なかったとも言えます。「雨」や「曇り」などでは到底そんな様子を表すことに及ばないからです。

「五月雨」のこうした比喩的表現は樋口一葉特有のものではなく、俳句・和歌の世界でもよく用いられます。ここでは明治時代の俳人である正岡子規の歌を引用します。

たまたまに 窓を開けば 五月雨に ぬれても咲ける 薔薇の赤花 

「偶然窓を開くと五月雨の中濡れても咲く赤いバラに気がついた」という意味です。子規は体が弱く病床に臥すことが多かったそうで、その自身の不遇な状況を「五月雨」として表現している訳です。この歌が実際に起きた出来事なのか定かではありませんが、「窓を開けば」は「自分の視野を広げると」程度の比喩で、「薔薇の赤花」は「綺麗なものの象徴」です。つまり、「今は体調も優れないし気分は最悪だけど、ふと身近なところに綺麗なもの(美しいもの)があることに気がついた」と詠っているのです。

樋口一葉と正岡子規の例から、日本文学における「五月雨」の基本的な概念を抑えることができたのではないでしょうか。

本編

これで長い回り道もこれでおしまいです。ここからは、本題である櫻坂46の『五月雨よ』の歌詞考察をしていきたいと思います。

この曲は「利他の精神」がテーマになっているそうです。この「利他の精神」については構成上編集後記に記しておきます。(究極の利他の精神がテーマとなっている谷崎潤一郎の『春琴抄』を一応紹介させて頂きます。興味がありましたら、是非。)

また、今回はスタンダールの『恋愛論』という200年前の作品に助けを借りたいと思います。

それでは先程の一葉の例で、私は「五月雨」というのは「心が(善悪に関わらず)何かに取り憑かれて不安定な状態」と言いました。『五月雨よ』も同様なことが用いられています。それを確かめていきましょう。


五月月雨よ 教えてくれ
曇り空に 叫んでた

僕は「五月雨」に何か答えを求めて叫びます。

止むつもりか? 止まないのか?

「雨が」止むか否か。それを僕は問うています。先ほどの正岡子規の例に倣い、「五月雨」自体が何かの比喩表現であるので、この「雨」も何かの比喩です。それは、まだこの時点では分かりません。なので今後、この「五月雨」と「雨」が何を表現したものなのかを考える必要があります。

先のことは わからないまま
五月雨式に 好きになってく

「雨が止んだ」先のことはわからないままという意味です。五月雨式というのは、ビジネスの場でよく使われるそうです。大辞林にはこう記述されていました。

(梅雨時の雨のように)途中、途切れながらもだらだらと長く物事が続くこと
大辞林

つまり歌詞では「五月雨」が終わった結末がどうなるのか分からないけれど、現在は沼にはまるように相手のことが好きになっていると言っています。

ここでスタンダールに「相手のことが好きになる」とはどういうことか、教えて貰いましょう。

自分が愛し、愛してくれる人に、できるだけ近く寄り添って、見たり触れたり自分のあらゆる感覚を以て、相手の存在を感じることに快感を感じること。
恋愛論

また、相手を好きになるまでのプロセスに関して次のように述べています。

1.まず相手に感嘆する
2.美点を検討する
3.相手からの愛を感じた際、共に時間を過ごしたいと思うようになる
4.魅力的に見えてしまって仕方がなくなる(恋の発生)
5.疑惑の発生(ex:今までの相手の自分に対する仕草は真なのか?)
6.相手に今まで以上の愛を欲する
7.相手からの愛を確信して、相手のことが頭でいっぱいになる

まだ歌詞を最後まで触れていませんが、『五月雨よ』の僕は、プロセスの3番から6番まで彷徨っています。


歌詞に戻ります。

言葉にしてしまえば
楽かも知れないけれど
自分の方からなんて
絶対に言い出せない

少し「五月雨」の正体に近づいた気がします。やはり、僕にとって「五月雨」のような状態は楽ではないこと(辛いとは限らない)で、それを打開(=五月雨が終わること)する術を知っているのに、そうすることはできないそうです。

はっきりとしないのは
天気も気持ちも同じ
風向き どっちつかず
僕は友達のままでいい

はっきりしない天気は「五月雨」のことで、僕の気持ちも「五月雨」と同じようにはっきりしないと言います。
ここで初めて「僕は友達のままでいい」と僕の気持ちが描かれますが、これはあくまでも「五月雨」のようにこの時の気まぐれでこう思っている可能性があります。つまり、友達のままではない状況を望んでいる時も僕にはあって、だからこそ「はっきりしないのは 天気も気持ちも同じ」だと言う訳です。これらは、スタンダールのプロセス5番「疑惑の発生」によって、少々君に対して投げやりになっている僕の心象です。


一旦ここまでの流れを汲んで、この楽曲における「五月雨」の意味について私なりの仮説を述べておきます。

私は今回「五月雨」というのは、僕が君に対して抱く思いで僕自身が苦しむ状態を表し、「雨」は君の存在を感じさせるものだと考えました。そして、僕はこの「五月雨」をどういう形であれ終わることを望んでいるのです。


具体的に説明します。
まず、序盤のこの部分に注目してください。

止むつもりか? 止まないのか?

これは前述の通り「雨が」止むか否かの意味でした。仮説を踏まえると「君の存在が僕からいなくなるのか否か」と言い換えられます。

そして、

先のことは わからないまま
五月雨式に 好きになってく

と続きます。つまり、いつか君がいなくなるのか分からないけれど、それでも現在進行形で僕は君のことが五月雨式に好きになっているのです。

五月雨よ 教えてくれ
曇り空に 叫んでた

再び1番最初の部分ですが、これを理解するには私の仮説のままでは難しいので、新たに解釈を加えます。

まず、「雨」は君の存在だと言いました。「五月雨」は主に3つの状態に分類できます。雨の状態曇りのどんよりした状態、そして極稀に雲間から晴れ間の見える「五月晴れ」という状態です。
この『五月雨よ』においては、「雨」「曇り」「太陽(五月晴れ)」の気象状態が”僕の五月雨”を構成する要素になっています。そしてそれぞれの気象状態にはそれぞれ何かが割り当てられており、「雨」は君の存在を感じさせるもの、「曇り」は君の存在が少し薄らいでいる状態、「太陽(五月晴れ)」は僕の現状の解放という役割をもって歌詞に登場します。
一般に晴れ→曇り→雨と気象状況は変化しますが、ことこの楽曲に関しては、僕の心象が同様に移り変わる訳ではないのに注意です。繰り返しになりますが、この楽曲においてあくまでも「五月雨」という状況が僕の中にはあって、その「五月雨」を構成する雨・曇り・晴れの要素がそれぞれ僕の心理状況を表し、それぞれを揺蕩うのです。
このことから、なぜ僕は曇り空に叫んだのか。それは、「曇り」が君の存在が薄らいでいる状態であるので、君が僕に対してする次の行動が何か自問自答しているからです。


では、今までの考察を踏まえて歌詞の続きを見ていきましょう。

だから心の内側で 雨宿りして
雲の切れ間 太陽をここで待つ

雨は君の存在を感じさせるものでした。
雨宿りする=雨に打たれない=君の存在を自分から意図的に絶つことを意味します。

五月雨よ 晴れた後から
愛しさが 込み上げてくる
見上げたって 変わらないのに
どこかに虹 期待してしまう

彼は五月雨が終わり、晴れることを望んでいました。本来なら、解放感と快楽でいっぱいになるはずです。でも、彼は愛しさが込み上げてくると言います。そして、虹を探してしまうのです。虹というのは、雨水に太陽の光が反射することで私たちの目に7色となって映るものです。つまり、彼は五月雨が明けるのを望みつつ、君という存在がいることを同時に願っているので、虹を期待してしまうのです。

広げられない 傘を持ってる
今すぐに 会いに行くために
どんな時も 絶えることない
永遠を 愛と信じてる

ここも先ほどと同じで、君という存在を感じるには傘を差さずにしておくことが一番の方法なのです。この時永遠に続いてほしいと願うのは雨です。やはり、僕は君の存在を欲していて、相手の存在を絶えず永遠に感じることが、愛だと僕は言うのです。


これ以降は一部を除いて今までの考察で十分説明で可能だと思います。ここからは、その一部分に焦点を当てて考察を重ねていきましょう。

不安の中 飛び出すべきだ
その勇気が 僕にあったら
雨だって きっと怯むだろう?
何もせずに 厚い雲に
覆われていちゃ 君に伝わらない

雨は決して怯むことはないので、君が怯むという訳です。
厚い雲に覆われているという部分の説明をしたいと思います。少しややこしいのですが、この雲は先ほどのように何かを表している訳ではありません。厚い雲のようにというただの比喩表現です。なので、これ自体に全く意味はありません。厚い雲というのは私たちを地球に閉じ込めてると考えると、自分の気持ちを表にかたくなに出さないことを言っているのです。

五月雨式に 降り続いてる 
五月雨式に 好きになってく 
雨よ止むな 

ここまでくれば、後はわかると思います。
五月雨式に降り続いている=君の存在を断続的に感じる
五月雨式に好きになってく=存在を感じる度に好きになっていく
雨よ止むな=君の存在をもっと感じたい
ということです。

これにて、櫻坂46『五月雨よ』の歌詞考察は終わりです。
少しでも『五月雨よ』を楽しむ手助けになれば幸いです。
ここまでお付き合い大変有難うございました。





編集後記

とにかく時間がかかった。というのも、書きたいことが沢山あり一度は字数が2万を超える長編になりそうだった。思ったことをただ書き連ねているので精神的な快感を得ているが、ただでさえ日に日に視力が衰えてる私の両眼はついに悲鳴をあげ、手元を見ながら打ち込んでいた程度の技術もついにはブラインドタッチを習得するに至った。


『五月雨よ』の歌詞のコンセプトは言うなれば好きな部類に入る。だが本当に理解しようと思うと難しすぎると言わざるを得ない。事実「五月雨」の言葉の意味を辞書で調べた程度では、歌詞を直接受け入れるしかなかったことだろう。前提となる知識があまりに多く、本質を捉えるまでの道のりが遠いと感じた。また「五月雨」にとどまらず「雲」等の単語も、気象的or比喩的な意味をその場の状況に応じて選択しなければならない点もより一層この曲の歌詞の意味を煩雑にしているのである。しかも、そこまで考えなくとも意味は通じるように書いてしまうのが、秋元康氏が日本のエンタメ界のトップに君臨している所以なのかもしれない。


五月雨は気象的・心象的の両面的な意味を持ち合わせていて、一度気象的な意味で捉えてしまうと雨、曇り、晴れと同列になってしまう。私と同じ、それらが五月雨を構成する要素であるという解説をしている方を自分が調べた限りでは見受けられなかった。


念の為何故「雨」が君の存在を一番に想起させるのか記しておく。これは当たり前すぎるが気象現象としての「五月雨」は基本的には雨が降っている。よって雨が最も要素として強く、僕にとって一番悩みの種である君にあたるという訳だ。


正直な所、秋元氏の意図しないところで、自分の都合がいいように論理立てているのではないのかと思う節が何度もあった。それを恐れながら、こうして書いているのも楽しいが中々勇気がいることなのだと実感する。


この歌詞で一番重要な立場として、僕は決して自力で五月雨を抜け出せないというのがある。その点で、僕の心象のみを描き出したこの曲において君の行動についての記載はないので、いつまでも僕は五月雨に留まり続ける他ない。五月雨が終わることはこの歌詞では決してあり得ない。五月雨を終わらせることが出来るのは、僕の好きな君だけなのだ。


本編には書いていないが、僕の「晴れを待つ」という部分について補足しておく。先ほども言ったように、僕は自力で「五月雨」から脱することはできない。いくら待とうが永遠に不可能だ。全ては君の行動に懸かっているからだった。五月雨において、五月晴れという一時的な晴れ間が見れることがある。なので彼はただ待つことで一時的な晴れ間を見ることができるが、夏の照り付けるような太陽を日中浴びることは永遠にないのだ。暑いのが苦手な私にとって大変うらやましい限りだが、僕は一時的な晴れを見た後結局は曇りや雨に苛まれる。君という存在から抜け出せないのだ。待つことで晴れ上がりという一時的な快楽を味わうが、その解放感も決してそれは長くは続かないことを、僕にはわからない。結局自分にはどうすることもできず、君の行動次第になっているところに「利他の精神」というテーマが色濃く表れているのだろうとも思う。


私が心から大好きな『無言の宇宙』における僕は、当初言葉で自分の気持ちを伝えることが必要であると感じていたが、最終的に自分の気持ちを言葉にして相手に贈ることを否定し、言葉にする行為それ自体が相手への気持ちの薄れに繋がると結論付けた。これらの主張は、大事なものはどうあれ大事で理屈で説明できるものではないという理由に拠るものだ。勝手に登場人物が共通していると仮定すると、『五月雨よ』が先で『無言の宇宙』が後になるだろうか。私は『無言の宇宙』の僕の主張とその理由には全く賛成できないので、『五月雨よ』の僕には『無言の宇宙』の僕のようにならず、沢山自分の気持ちを好きな相手に伝えて欲しいなと個人的に願うばかりである。


このnoteを書くにあたって、微かな記憶を頼りに様々な本を読み漁った。とくに、スタンダールの『恋愛論』にはとてもお世話になった。この本を手に取るのは実に数年ぶりで私が中学1年生だった。当時はませていたので若気の至りで手を出したが、フランス文学の良さでもある表現の特徴に苦しみそれでも何とか無理やり読み進めたのであった。当然半分も理解できなかったが、今でも確かに覚えている記述がいくつかある。それについて紹介させて頂きたい。

・人はあらゆるものを孤独の中で獲ることができる、性格を除いては。

・嫉妬の苦しみをこうして鋭くするのは、虚栄心がその苦しみを耐えるのに何の助けにもならないからである
スタンダール『恋愛論』より

まだ書きたいことは山ほどあるが、心優しい読者もそろそろ飽き飽きしている頃だろうから、ここまでにしておこうと思う。歌詞の考察は案外楽しいので、今後もやることになると思う。是非その時もまたお付き合いください。
ここまで目を通して頂いた愛しい読者様に幸運がありますように。

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