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思考と嗜好。

すっかり落ち着いていたはずの心が崩壊するような出来事は、一瞬の隙をついてやってくる。
そんなとき、まだきちんと強くなれていない未熟な自分に直面する。
以前はことあるごとに存在を否定していた自分が、今はそのような思考に至らなくなっている。
ほんとうに強くなるまでは、まだ時間が必要だけど大丈夫。
少しずつ確実に成長できている。

音楽は嗜好品。
好き嫌いを意識的に決められるものではない。
操作できない特別なもの。
対象の音楽を聴けない、苦手という思いは聞かれなければ口にしない。
それは誰かを傷つけてしまう可能性を含むから。
誰かにとっては大切で大好きで知らないことがもったいないことだったとしても、わたしにとってそうではないことは多い。

同調を迫られそうになったときには、自分の本心を伝えるためにものすごく嫌だと思いながらネガティブな言葉を口にしなくてはならない。
嘘をついて我慢の付き合いを続けるよりも、自分が一瞬の悪者もしくは生涯の敵になったほうがマシ。
それがわたしにとっての誠実。

波風がたたないようにただただ同調を繰り返して人間関係を構築していたような過去はもう繰り返したくない。
だからいちばん好きな芸術、音楽の前で嘘をつくことをやめた。
バランスが取れなくなると、両手放しで純粋に楽しめる場を、気持ちを、維持できなくなることを経験したから。
もう一度取り戻していくには、何年もかかることを知っているから。

人間関係のしがらみを解くことは決して簡単なことではない。

現場で観て聴いている音楽にどうしても飽きてしまうときがある。
あまり得意でない生クリームやカスタードクリームを食べ続けるのとさして変わらない。
長編におよぶ映画だって、途中で暇だなと感じてしまうことがある。
興味があって見始めたドラマでも、途中で離脱することは少なくない。
誰かに進められても、気が進まないものは気が進まない。
それはとても自然なこと。

それでも、さいこーにかっこいいものを、さいこーに素晴らしいと思う表現を全力で見せてくれていることはわかってる。
多くのヒトと接してきた大人だから。
これまでにさまざまな困難があったであろうこともわかってる。
それは、映像作品や音楽、絵画、全てにおいて変わらない。

どれだけわかろうとしていても自分に合う合わないはどうしても出てくる。
「お金を払って観にきたオーディエンスなんだから何を言っても許される」なんて上から目線は端から持ったことはない。
SNSで対象をバッシングする言葉を書き連ねるよーなことももちろん絶対にしない。
ただ、観たいかどうか、好きか嫌いか、その場に留まるのか離れるのかという気持ち、行動はこちらが選んでいいものだと思っているし、これからもそのスタンスはきっと変わらない。

表現に対する好き嫌いを、不特定多数ではなく聞かれたヒトに伝えることは陰口もしくは悪口なのか。
観てる途中で飽きてしまうという気持ちを抱くことはバッシングに該当するのか。
そのような気持ちが災となり自分に返ってくるという理屈は果たして成立するのか。
嫌いなもの苦手なものをヒトに伝える人間は陰で悪く言われ、嫌われても仕方が無いことにつながるのか。

攻撃を受けた理由はわかっても、その道理は理解に苦しむ。

つじつまが合わないことには昔から恐怖をおぼえる。
久しぶりに投げつけられた負の感情をただただ不思議に感じ、いびつな感覚の中を浮遊してその場をまるくおさめる方法だけをピックアップして実行に移した。

何となく懐かしさを感じたのは、グループのみんなが好きなものを自分も好きなふりをしないとこじれてしまう中学時代のあの生きづらさに似ていたからかもしれない。
同じような価値観を共有できないと関係を切り捨てられるあの空気。
派閥。

そのヒトの琴線は一度触れてみないことには気づけない。
それが、一歩近づいた証拠だったとしても、関係を継続することとイコールにはならない。
怒・哀の感情は相手を十分に傷付ける強いエネルギーを秘めている。
よっぽどの信頼関係がないと、真正面から受け止めるのは困難なほど複雑でトゲのある特殊なエネルギー。
この2つの感情を向けられたとき、気持ちは受け止めることができても、その感情が攻撃となることは少なくない。

心が悲鳴をあげたときにこそ、今ここにいる自分に返り、選択することを大切にしよう。
相手があって起こることはどちらも悪くないことが多い。
どの選択が自分を大切にできるのか、単なるエゴにならないよう自分と対面しそれを踏まえたうえでどうするのかを心に聞いてみよう。

昨夜はそんなことを考えながら、朝方になってやっと寝付いたのでした。

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