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噛みついていこう

 ツイッターで、お笑い関連の関係者の方が「〜するべき!」とう意見を見るとドキッとする。「そうなんや!ああ!何も考えていなかった!」と思うからである。意見を持ってそうで、そんなに持ってない私はこういう書き込みを見ると、自分のことが薄っぺらく感じる。
 R-1のポスターデザインが優勝者への冒涜だ!という意見が蔓延っているとき、そのポスターを見てもそんなことを思わなかった。でもこれは「冒涜ではない」という反対意見じゃなくて、それの前段階の「何にも感じてない」に等しいのである。普通に素敵だなと思った。あのポスターを見て、一旦無の状態になる。このときには自分は素敵だな意外感じていない。その結果、みんなはどう思ってるのか気になって、リプ欄などを見て、その意見に賛同したり賛同しなかったりしながら自分の意見を固めていく。クッキーの型抜きみたいな作業なのかもしれない。元々の私の意見は何の形でもなくて、型という世論のおかげで形となって私の口から発せられているような感覚である。元々の私はひらべったいメタモンのような意見なのに、型抜きによって綺麗な形となり、あたかも自分の意見のようにそれを放射する。

 世間の方々はこんなに自分の意見をしっかり持っているのにも関わらず、私はというと湯葉みたいな意見でここまでやってきたのかと落胆することもある。醤油で食べたらおいしいからいいんやけど。

 前にもこのキショnoteで「実はあんまりなんも考えてない」みたいなことを書いたのだが、さすらいラビー中田さんにも共感いただいたりして、意外とそういう意見も多かったのでもう一回考え直した。

 SNSの普及で人のポリシーにぶつかる時が増えた。居酒屋で飲んでるとき、夜が更けて酒が回ってみんなの剥き出しの思いが出るあの時以外こんなにぶつかることがなかったのに。人のポリシーにぶつかる時はなんかドキドキしちゃう。これは多分、そのポリシーに反するような行動を取ってたら申し訳ないなという気持ちと、ポリシーすら持ってないことがダメと思われないかというドキドキである。

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