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多摩川梨から見る戦後川崎の一次産業における変遷

川崎名産であった多摩川梨

現在は工場の町として知られる川崎だが、昭和の時代には一次産業が盛んで、中でも稲田地区を中心に、梨の一大産地だったという。ニュース映画から、主に育てられていた品種は「二十世紀」「菊水」「長十郎」などで、収穫の時期にはもぎとりの行楽なども行われていたことがわかる。

この多摩川梨の歴史は意外にも古い。1990(平成2)年に掲載された朝日新聞の記事によれば、江戸時代初期に川崎大師河原で栽培された記録があるという。寛政時代に盛んになり1893(明治26)年、同地の当麻辰次郎の梨園で長十郎が発見され、いま川崎大師の境内に長十郎梨の記念碑があるそうだ。

この発見で、大正初期には川崎が梨の一大産地になった。だが工業都市化で次第に多摩川上流に移り、1835(昭和10)年には農林省調べで全国の46%を占める梨栽培地になった。

戦前の川崎で、全国の5割近い梨が栽培されていたというのは、現在からはにわかに信じられない。2021(令和3)年5月に公表された農林水産省の作物統計調査結果によれば、現在、日本なしの都道府県別収穫量トップは、千葉県の11%だ。次いで、長野、茨城、福島県がそれぞれ8%。栃木県が7%、鳥取県が6%と続く。これら6県合わせると48%となり、ようやく当時の川崎に匹敵するようになる。

減少した梨農家

先に挙げた朝日新聞の記事によれば、戦中、多摩川流域は水田強制で梨は壊滅したそうだ。しかし戦後、復興し、1955(昭和30)年ごろから梨もぎ取り観光販売が盛んになった。川崎市映像アーカイブで見られるニュース映画に映し出されている光景は、この頃のものだろう。

同記事には、「だが今、宅地化で梨農家は減りつつある」と書かれている。2000(平成12)年の朝日新聞の記事には、「220戸余りの農家」が多摩川梨の栽培をしていると書かれている。その後、2007(平成19)年の朝日新聞の記事には、「160戸の農家」が生産していると書かれていた。朝日新聞で多摩川梨について書かれた記事の中で、最新のものにあたる2019年(令和元年)2月の記事には、梨農家減少の原因を「都市化や後継者不足」としている。現在多摩川梨は、市場には出回らず、贈答用が主である。

梨農家の減少を引き起こした宅地化とその原因

宅地化や都市化によって減少した梨農家だが、その宅地化を引き起こした原因はと言えば、戦後の工業化や都市開発、それに伴う都市部への人口流出が考えられる。

都市部への人口集中は、現在も解決していない、日本社会における大きな問題だ。私は今年、春木教授によるバーチャルフィールドワークに参加し、川崎市とほぼ同じ面積を持つ、徳島県の美波町という町と縁を持った。この美波町は平成に入り、日和佐町と由岐町が合併して誕生した町である。

近い面積を持つ川崎市と美波町だが、その人口は驚くほど異なる。1950(昭和25)年の国勢調査によれば、川崎市の人口は319,226人だ。そして、日和佐町と三岐田町の人口を足し合わせると、12,045人となる。そこから1980(昭和55)年には、川崎の人口は1,040,802人と大幅に増加しているが、日和佐町と由岐町の足し合わせた人口は11,866と減少している。

こういった地方から都市部への人口流出が、都市開発に拍車をかけ、住宅地の確保が急がれ、結果として川崎の第一次産業が減少していったのではないだろうか。

〈参考文献〉

・朝日新聞1990年11月09日、夕刊、文化面
・朝日新聞2000年8月30日、朝刊、神奈川1
・朝日新聞2007年8月11日、朝刊、横浜・1地方
・朝日新聞2019年02月25日、夕刊、1社会

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