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宇治から草津へUターン!上津屋橋と草津宿本陣を行く【草津概要編】

草津と言えば日本三名泉の一つである名湯草津温泉を有する吾妻郡草津町の事かと思う人も多いかもしれないが、今回訪れた草津宿本陣は群馬県ではない
畿内の地理に明るくない人には馴染みが薄いかもしれないが、滋賀県には草津市という市がある。
ここはかつて東海道と中山道の宿場町である草津宿という宿場町がおかれていた交通の要衝だ。


草津とは

草津追分

江戸から京都へ至る街道の中でも最も有名なものが、いずれも五街道として徳川幕府から定められた東海道中山道である。
日本橋を起点として東海道が太平洋沿岸部を、中山道が内陸部を通り、いずれも西進して京都へと至る。
しかしながら、この2つの街道は京都に至る前に合流して一本の街道となっている
その合流点こそが草津追分であり、草津宿だったのだ。

草津追分にある道標
左中山道美のぢ(美濃路)、右東海道いせみち(伊勢道)とある
復元された高札場

重複区間

今回草津へ行くにあたり調べている際に新しい事をいくつか発見して興奮したのが、その一つが旧街道にも同様に重複区間が存在したということだった

重複区間というのは、物理的には一つの道路であるが、法律上は複数の国道として指定を受けている状態を指す言葉で、道路行政に関する用語だ。
そもそも国道を含む道路法上の道路には、路線ごとに起点と終点、そして経由地が定められている。
しかし、これらの路線が物理的にそれぞれ建設されているわけではなく、重複して指定されている区間が多数存在し、これを重複区間と呼んでいるというわけである。

こうした重複区間という概念はいかにも近代的な道路行政の中で生まれたもののように思えるのだが、実はそうではなかった事に気付かされた。
東海道五十三次と呼ばれる宿場町の中で、最後の二箇所である草津宿と大津宿は、中山道六十九次の最後の二箇所と同じだった。
そして、これら五街道は明治を遡ること200年以上前の江戸時代初期に定められていたのだ
つまり、現代日本の道路行政には当然の如く存在する道路の重複区間という概念は、400年近く前からあったということになる。

重複区間に対する熱い思いが先走ってしまったが、草津の話に戻そう。

東海道と中山道が草津追分にて合流して京都までの区間を重複区間としているのと同様に、東海道と並行するルートを通る国道1号中山道と並行するルートを通る国道8号も滋賀県内で合流し、京都までの区間を重複区間としている。

ただし、国道の合流点は草津ではなく栗東市内(栗東第2インターチェンジ付近)であるため、現代の草津追分とは言いにくい。


草津JCTと草津PA

草津JCTは名神高速道路と新名神高速道路(大津連絡路)とを結ぶJCTだ。
2つの高速道路はそれぞれ旧中山道(名神高速)と旧東海道(新名神高速)と概ね並行するルートを通っていることから、これらを結ぶという意味で現代の草津追分と呼ぶに相応しいと言えよう。

一方、草津宿本陣が置かれた位置は草津追分のすぐ側だったのだが、この草津JCTにも近接して草津PAが設置されている。
さすがに宿泊施設こそないものの、こちらは現代の草津宿と言っても良いのではないだろうか。

ちなみに近隣で宿泊施設があるのは名神高速道路多賀SAで、レストイン多賀というハイウェイホテルが設置されている。

近畿自動車道名古屋神戸線というのは新名神高速道路のことを指す

江戸時代に整備された街道と概ね並行するように現代の道路が敷設され、そして合流しているという事実に、現代の道路が旧街道のDNAを受け継いでいるようで大変感慨深い。
こうした些細な学びや発見が知的好奇心を刺激し、知識欲を充足させてくれる。
全くこれだから旅行はやめられない。

このように、草津宿がおかれた草津という地が交通の要衝である理由を、現代の交通事情とあわせてつらつらと述べた。
しかし、導入部分だけで紙幅を割き過ぎてしまったので、次回以降の記事であらためて旅行の記録を時系列で記述していこうと思う。

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