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『茶柱の立つところ』 小林聡美

買ったものの責任は基本的に自分でとらねばならないと思う。これだけ生きて来れば、とらねばならない責任の大きさはそれなりにある。ものすごいお宝がない分、気が楽だが、できれば責任は小さいほうがいいので、有形の買い物はこれからもよくよく考えてしようと思う。買う時よりも手放す時のほうがエネルギーが要るというのは、経験上、自をもって言えることだ。年を取るにつれ、そのエネルギーを絞り出すのも大変だろう。でも生きているかぎり、ものは増える。そのたびに気持ちが試される取捨選択はずっと続くのだ。もうものは要らない、といいながら、心ときめくものに出会うと心が揺れる。でもその時、それが将来ゴミになることも想像できる自分でありたいと思う。つまるところ、一生ものとは、自分の体しかないのだ。いろいろなものに取り囲まれていても、結局最後まで一緒にいるのは自分自身。それに気づくと、美味しいものを食べて、ほどほどの刺激に感動して、静かに生きていければいい、猫がおなかを満たして心地よく眠って一生を終えるように、人間も、本当はそれでいいんじゃないの、と晩年が始まっている私は思う。

p174-175

別に長生きしたいわけではないけれど、私は心身の安全のためにゆっくり生きることに決めた。一日の予定は詰めこまない。やるべきことをしっかりと。駅への時間もたっぷりと。

p178

いくら健康に気をつけて運動をして栄養に気をつけても、年は取るし、病気にもなる。今、おかげさまで元気で平穏に過ごしている日々は、もっともっと年を取った時「夢のようだったわねえ」などと思うのだろうか。そんな夢を長く続けたくて、運動したり、栄養をとったりしているのかもしれない。運動しないよりはしたほうがいい。栄養も大事。でも、なんのため?と考えた時、結局は気持ちのためなのかなぁ、などと考えたりする。運動をすること、食事にこだわることで、確かに気持ちは安心する。

p186

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