芸術的感覚の欠如なんでしょうか?
ピカソの良さがまったくわからない。
ピカソって言うか、たまたま知ってる名前を出しただけで(;´∀`)
世の中の名画を・・・って言うか名画だけじゃなくって。
いや、違う。名画と言われるモノをいったいどれだけ知ってるのか?
と聞かれたら驚くほど知らないと思う。
何を言いたいのかというと、おそらく単純に何か欠如してるんじゃないかと思うわけです。
こんな思い出がある。
小学校の写生大会の時のこと。
確か、木造校舎の建て替えが決まり、最後の姿をみんなで書いておこう!
って趣旨だったと思う。
そもそも普段、お絵かきくらいしかしてこなかった私にとって、
人生初のちゃんとした写生の機会だった。
思い思いに校内に散らばって書き始め、私は校庭に陣取って、校舎の全体を描いた。
そうして出来上がった絵を見た先生はこう怒った。
「定規を使っていいとは言ってませんよ!」
絵を描くとは、とにかく見たそのままを描くものだと思っていたので、
窓にはまった窓ガラスが16枚なら16枚、きっちりと数えて描き、
木造の板の一枚一枚をできるだけ真っ直ぐ慎重に書いた。
板の数はどうだったか記憶にはないが、先生が定規を使ったと勘違いするほど、正確に真っ直ぐ書いたんだと思う。
だって16枚は16枚だし、校舎の壁の板があちこちひん曲がっているわけないじゃないか。
周りの子達の絵は、それぞれ色んな特徴があって、実際の色とは違っていたり、
校舎が大きく歪んで見えたり、校庭の樹がやけに小さく描かれていたりした。
それを見ても、
僕にはあんな色には見えないし、
樹はもっと何倍も大きいのに
どうしてあんな絵になるんだろう
と、不思議でしかたがなかった。
あぁいうのが「絵」を「描く」(えがく)って事なんだろうなぁ。
自分のは何なんだろう?
どうして見たままにしか書けないんだろう。
先生に怒られたこともあって、自分の絵がひどくつまらないモノに見えて、その経験以来、絵を描くことが嫌いになってしまった。
大人になってもそういった感覚はそれほど変わってない。
ピカソの「泣く女」を見ても
「これはいったいなんなんだ?」
くらいの気持ちしか沸かないのだ。
それならピカソの初期の代表作「科学と慈愛」って絵のほうが、
「おぉっ、すげぇ」
と感動する。(さっきネットで初めて見たんだけど(笑))
ちょっと勉強してみようと、AIと遊んでみた。
いい歳のおっさんの質問とは思えない(笑)
しかも、最後の「!」は、「?」の入力間違いで、
なんだか怒ったように、えらそうに聞いてる風になっちゃってる。
優しいAIが怒らずに答えてくれたのがこちら。
そんないきなり高度な事を聞いているわけじゃないんだ。
「ゲルニカ」?
ゲルニカは戸川純の音楽ユニットじゃないのか・・・・。
キュ・・・キュビズム??初単語…。
ちょっとあまりにもAIに押され気味なので、負け惜しみでこんな事を言ってみた。
なんとも余裕の返しをしてくるAIさん。
そうして作ってくれたのがこちら
す、すげぇ!!
これがキュビズムなのか!!
正直まったくわからないが、なんとなくまぁすごい(笑)
にしても、なんで人間をこんな・・・ステンドグラスみたいに書くんだろう?
「記事を書けずに悩んでる男の苦悩」てお題で絵を描いてみなさい
と言われても、自分ではまずこんな発想は浮かばない。
あっ、そうか。別に私はキュビズムじゃないし。(あってる?この使い方)
何かに感動する心が欠如してるってわけじゃないと思うんですよ。
富士山を見ればキレイだなぁ、雄大だなぁ、と飽きずに見ていられるし、
法隆寺の大講堂の静謐さにだって心を奪われる。
ディズニーシーの夜景も素敵だなぁと感動するし、
キャンプのこんな風景も大好きだ(笑)
でも、「絵」とか「彫刻」とか・・・・あと何??
そもそもこういうところで言葉が出てこない時点でいかん。
なんなんでしょうね?
自分が自分の目で見た・・・違うか。絵だって自分の目で見てるし。
うぅむ・・・答えが出ないぞ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?